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フレデリック・ラルー『ティール組織』


これはとても良い本。新しい時代の組織について書かれた一冊。580ページもあるが、理論整然としているし、具体例も多いので極めて読みやすい。著者の言う新しい組織形態は進化型evolutionary組織と呼ばれる。その組織には指示関係を表す組織図もないし、全社戦略も、全社の予算もない。現場の小さな人数からなるチームが権限を持ち、現場でおよそすべての意思決定を行う。進化型組織の人々は利益を追わないし、自分らしく生き生きと働く。

こんな特性の組織を聞くと、特に営利組織として存在することは夢物語に見える。だが著者はこうした組織を実際に発見し、調査し、その特徴を描き出す。こうした新しい組織形態を模索しているパイオニア組織は、互いの存在を知らず、セクターや規模にかかわらず驚くほど似たような組織構造と慣行にたどり着いている(p.20f)。本書はそうした知らずのうちに共通した、進化型組織の特性をとても分かりやすく書く。すぐに様々な疑問に浮かぶーーやる気のない従業員・フリーライダーへの対処、予算配分、人事考査、報酬体系、採用、チーム間で意見が対立する際の調停、マネジメント、法務や財務などのバックオフィス機能、利益を求める株主への対処。こうした事柄に、進化的組織は対処する方法を持っている。具体例を挙げて明快に示される。頻出するのはオランダの高齢者訪問看護組織のビュートゾルフ、フランスの金属部品メーカーFAVI。他にはグローバルな電力会社AES、アメリカのトマト加工食品会社モーニング・スターなど。日本のネット企業オズビジョンも少し登場する。

著者の組織観は、人間の発達心理学的な発達段階が基礎になっている。単なる受動的な段階から、神秘的、衝動型、順応型、達成型、多元型と名付けられた段階を経て、進化型に至る。この分類と特徴づけはクリアで、ここだけでも価値は高い。ちなみに著者はこうした人間の意識の発達段階を、インテグラル理論に倣って色で表す。ただし色名の付け方は部分的に異なっている(p.28)。邦題にもなっているティール(原題は「組織の再発明」)とは、カモの一種。特にマガモの首の、深い緑から青に至る色を指す。ただ、この色名はさして意味がない。何か思い入れがあるような記述もあるが、なぜ各発達段階にその色名が付けられているのかは説明されない。「進化型」など、それぞれの段階を特徴づける名前がきちんとつけられているので、色名はまったく無視してよいだろう。「ティール組織」なんて名前でなく、きちんと「進化型組織」としてこの概念が広まってほしい。

ここでは発達段階とされているので、あたかもここには階層秩序があって、下位の段階は劣るように見える。本書は明確にそう扱っていないが、読み手は序列を見るだろう。それは間違いだろう。それぞれの環境に応じて、適切な発達段階、組織形態がある。特に新しい段階の組織が生まれるスピードは加速しており、現代は多くの段階の組織が隣り合わせに活動している(p.61f)。ここに序列を読み込むのは先入観に過ぎない。ちなみに参考文献を見るに、この発達心理学的なところは、組織学や経営理論に比べて古い。著者がメインに参考にしているのは例えばケン・ウィルバーなのだが、議論自体の古さは頭のどこかに置いておいたほうが良いだろう。

現代の社会では多くの組織は達成型である。そして多元型が達成型を克服するものとして見られている。達成型の発達段階では人間は自由に人生の目的を追求する。ここでは成功する(出世する、金持ちになる)ことが中心だ。達成型組織は現代のグローバル企業に体現される。イノベーション、説明責任、実力主義がそれを彩る。ただし達成型組織の問題はイノベーションの行き過ぎ。ニーズを無理やり作り出そうとし、成長のための成長を目指す。こうした組織は、医学的には癌そのものといえる(p.57f)。

著者は最後のほうでは、この発達段階の比喩を組織形態のみならず、社会全体にも拡張する。順応型なら封建制社会、達成型社会に至って産業革命が起こるなど。すると、進化型社会では自然との共生、利子なき金融システム、所有権から管理責任へ、といったところがキーワードになる(p.487-497)。

各組織の発達段階を決めるのはリーダーの発達段階だ。リーダーがどのパラダイムを通じて世界を見ているかが、組織を決める。どんな組織もリーダーの発達段階を超えて進化することはない(p.70-72)。ゆえ、組織のミドル層とかからの変革はほぼ無理。進化型組織になれるかは経営トップと組織オーナーの世界観で決まる(p.394-396, 445)。組織の発達段階に応じて、その中の人の振る舞いも作られていく(p.133)。軍隊的な組織にいれば、是非を考えず服従を主とする人間になる。このことは、四象限を用いてうまく語られる。それは個別的/集合的、内面的/外面的の軸からなる。個別的で外面的なもの、すなわち観察可能な個人(リーダー)の行動が起点となり、それが集合的・外面的なもの(組織のプロセス)と集合的・内面的なもの(組織文化)を作り、個別的・内面的なもの(個人の心の持ち方)を作っていく(p.380-382)。

進化型の発達段階とは、自分自身のエゴ、私利私欲を切り離した段階。ここでは独りよがりの思いや、他人の評価や外的基準によって人は動くのではない。全体と調和した、自ら正しいと信じる信念に基づいて行動する(p.74-76)。こうしたエゴの超越は、著者においては後ろにスピリチュアルなものが控えている。超越的な精神領域への解放と、自分が大きな完全体の一部であるという深い感覚とともに起こる。ヨガとか禅とか、インド哲学とかを思えばよい。全体性wholenessにたいする憧れが生まれるという(p.82)。この辺りは達成型の個人主義に対するアンチテーゼの面が強く、特に欧米の文脈ではよくあるものなので、さほどまともに受けあう必要はないだろう。

進化型組織は、生命体に比喩で語られる。ちなみに達成型組織は機械、多元的組織は家族(p.90-93)。進化型組織へ移行するための突破口break-through(本書の用語だが、進化型組織の特徴くらいに思えばよい)が3つある。自主経営self management、全体性wholeness、進化目的evolutionary purpose。この三つをキーワードにして、そのために進化型組織がどのような仕組みを備えているのかは簡単にまとめられていて(p.385-389)、そのリストは極めて参考になる。

ちなみに進化目的は本書では存在目的と訳されている。これは著者の意を最大限汲むか、分かりやすさを取るかだが、単純に組織の存在目的(存在理由raison d'être )とは言いにくい。生命体としての組織がどこへと進化していくか、なぜ変化を行うかという意味合いがある。すなわち生命体の比喩を使いつつも、組織は人間が作るものだから目的を持つ。生物学的進化そのものには目的はない、という議論に馴染んでいる人には、進化目的という言葉はちょっとピンとこない。というより、生命体の比喩はそもそも失敗しているとも言える。

自主経営というのも苦しい訳語だが、現場の小さなチームが意思決定を行うこと。その意思決定の程度は並大抵のものではない。マネジメントの権限そのものが委譲される。よって進化型組織にはミドルマネジメントがない。法務や財務など、いわゆるバックオフィスのスタッフもない。通常の会社では各現場がそうしたバックオフィス機能を持つより、本社に集約したほうが規模の経済が働くのだが、そうした考えはない。またスタッフ機能によって現場をコントロールするという幻想を捨てなければならない(p.121)。法務知識などは現場が知識を身に着けるか、外注して助言を求める。スタッフ機能によるコントロールの代わりに、相互信頼による統制が効いている。他人を見習う習慣と仲間からの圧力が、階層性よりもはるかにうまくシステムを統制するのだという(p.133-136)。この、お互いを徹底的に信頼すること、というのが進化型組織の一番の特徴だろう。明確には書かれていないが、相互信頼こそが鍵。進化型組織は従業員を信頼する。マクレガーのY理論だ(p.182f)。

よって自主経営とは、ソビエト的な中央計画委員会から、組織内に自由市場経済を成功させる原則を持ち込むということだという(p.141f)。ただ、自由市場経済が相互信頼によって成り立つかどうかは議論の的だろう。比喩は成功しているだろうか。マネジメントなどの管理業務が一人のメンバーに集中すると、いつのまにか階層的組織のやり方に戻ってしまうリスクがある。ビュートゾルフでは管理業務をいつでも全員で負担しておくようにしている。FAVIではチームリーダーと呼ばれる一人の人に管理的な仕事が集中しているが、誰もがいつでも他のチームに移れるようになっている(p.152f)。意思決定はそれぞれが行うが、利害関係者のすべてに助言を求めることが要求されている。ただし、助言には従わなくても良く、コンセンサスではない(p.165-171)。最後にはその人・チームの意思決定をみなが信頼し、尊重する仕組み。

ソーシャルネットワークなどで他人と結びつくことに慣れている、ミレニアム世代の方が自主経営に馴染んでいるかもという指摘(p.232-234)は面白い視点。

全体性という特徴については、私利私欲を仕事に持ち込まないことが鍵となる。他人の妬みや羨み、足の引っ張り合いをなくす。自分の中の何かを我慢して仕事を行う必要はない。自分らしく仕事をできるように、オフィスを整えること。犬を連れてきたり、子供を連れてきてもよい。エゴを排除すると言っても、無私無欲が要求されるのではない。私たちは利己的でなく、完全に自分らしさを保ちながら、組織の進化目的の達成に向かって努力することができる。勤務中に自分を一部でも拒絶する必要はない(p.412)。こうしたことを実現するために、紛争解決プロセス、ミーティングルール、オフィスビルの工夫、人事制度などがある(p.242-244)。

全体性のくだりは、やや違和感を覚える。どうも論調は、仕事する私とそうでない私(onとoff)の分離を問題視して、私という全体を取り戻そうという話になっている(その先に世界全体との調和というより大きな全体性の話が来る)。ただ、ポイントはエゴを仕事に持ち込まないことだろう。相互信頼は、ペルソナ間では無理なのだろうか?発達段階の話からする進化型段階での自我の超越、全体性のテーマから、進化型組織において全体性が持ち込まれているように見える。ポイントが少しずれている感覚を個人的には持つ。

進化目的は、従来型組織では経営理念だったりビジョンにあたるようなもの。ただ、進化型組織の持っている進化目的は、その組織のためのものというより、より広い文脈にある。社会的課題の解決のようなものが据えられる。その目的が達成されるなら、自分の組織が達成する必要すらない。容易に他の組織と組んでいくし、利益を追うことも目的としない。利益は目的を実現するにしたがって得られていく副産物だ。進化目的とは、自分の組織が世界の中で何を実現したいのかという独自の目的を、従業員が感じ取り、自分の会社が生命体であると捉えるようなものだ(p.470f)。

こうした進化目的に向けて、進化型組織は目標数値などは設定しない。進化型組織の視点からは、未来は予測できないもの。目標数値の設定は意味がない。アジャイルなやり方が主(p.352-358)。こうして進化型組織は状況に合わせて変化し続ける。変革は自然に起こるため、チェンジマネジメントなどいう考えすらない(p.362)。ちなみに、こうした環境の変化への適応、数多く繰り返される実験的な事柄、変化の行方の分からない統制のなさといったところが、進化型組織の生命体との比喩の理由であり、「進化型」という名前の由来だろう(p.485)。だが、進化とは単独の生命体=組織で起こることではなく、世代を通じた淘汰において起こるもの。ちょっとずれがある。

最終章は進化型組織の作り方。進化型組織は一度できてしまえば、もう安泰なのではない。CEO(進化型組織は階層がなく最高責任者という概念はふさわしくないが、いわゆるCEO)や取締役会の理解がなければ、進化型組織もすぐに従来型に戻ってしまう(p.420-427)。三つの特徴のうち、一番達成しやすいのは進化目的。進化目的に関する慣行は、最も容易に受け入れられる可能性が高い(p.472)。もっとも難しいのは自主経営。自主経営を採用する進化型組織に移行する時に最も難しい問題は、ミドルマネジメント、シニアマネジメント、スタッフ部門の抵抗にどう対抗するかだ(p.455-457)。こうしたものができていない、スタートアップ企業は一番、進化型組織にしやすい。そもそも立ち上げの直後の段階はどこも自主経営される傾向がある。進化型組織はゼロから立ち上げる方が作りやすい(p.434)。

進化型組織への移行の仕方は三つ書かれる。創造的カオス、ボトムアップの再設計、既存テンプレート(p.457-461)。創造的カオスでは、ビッグバン的にトップダウンで組織を作り変えてしまう。このこと自体は進化型組織とは相いれないのだが、法措定暴力のようなものだ。ボトムアップの再設計では皆の同意を取りながら、組織を変革していく低速なアプローチ。既存テンプレートはすでにある進化型組織の形(ホラクラシーなど)を導入する。実際はこの導入の過程がトップダウンかボトムアップになり、前二つに吸収される区分だろう。

進化型組織が、自主経営・全体性・進化目的を実現するために持っている仕組み、慣行(p.438-443)。自主経営について3つ、助言プロセス、紛争解決メカニズム、同僚間の話し合いに基づく評価と給与決定プロセス。全体性について4つ、安全な空間を作るための基本ルール、オフィスや工場の設計、オンボーディング・プロセス(新人教育)、ミーティングで実践すべき慣行(参加者のエゴを防ぐ手段)。進化目的について2つ、採用プロセス、「誰も座らない椅子」(組織そのものの意見を代弁する)。よくまとめられている。

進化型組織への全面的な移行は、記されている通りリーダーやオーナーの世界観によってなされる。一見、従業員には関係のない話に見える。ただ、徐々にでも進化型組織の特徴を取り入れていなかければならないように、時代環境は要求しているのも確か。自分のチームで進化型組織の慣行をいくつか採用してみるなど、できることもあるだろう。誰もが一度は読んで、みずからの属する組織(それは企業に限らず、地域コミュニティーや学校かもしれない)について考えるべき。豊富な視点を提供する、貴重な一冊だろう。
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井上篤夫『アメリカの原点、ボストンをゆく』


ボストン在住の21名へのインタビュー。ボストンという街の特性を伝えようとしている。本が書かれたのは2007年。松坂大輔がボストン・レッドソックスに入団したことで、ボストンという街が日本から注目を浴びた。本書はその流れの中でボストンを紹介するように書かれている。

ただそれぞれのインタビューは一貫した何かのテーマについて聞いているのではない。それぞれの人が自分の生まれや現在の生活、ボストンについて語っている。それら様々な語りの中から、おぼろげにボストンを浮かび上がらせようとしているのだろう。けれども結局は、それぞれの一貫しないインタビューのなかに消えていく。もっと構造化、抽象化しないと見えてこない。話が具体的で分からない、ということの典型例。

ボストン人であるボストニアンの条件とは、レッドソックスを好きなこと、そして車道でなく歩道を歩くこと(p.25f)。そんなことより、ボストンを何よりも愛すること(p.188)。ボストンはアングロ・サクソンのアメリカの出発点。AがAHになり、Rが抜けるボストン訛り(BostonはBawstinと発音される)はキングス・イングリッシュに近いという自負(p.114f)。そんなボストンは伝統を重んじる保守的な土地。だがそれと同時に、前例のないものをたくさん生み出してきたのもボストンだ。モールス信号、電話、ドライヤー、肝臓移植、奴隷制の廃止(p.42f)。こうしてボストンは進歩的でリベラルな気風も持つ。インタビューアーは口々にブッシュ政権を呪い、オバマを待ち望んでいる。とはいえこれは人選に偏りがあるのだろう。

日本との関わりでは麻生花児という画家が長々と扱われる。ボストンに移住して活躍した画家で、ボストン美術館付属美術大学で絵画を教えた。後に独自の美術学院カジ・アソウ・スタジオを開設(p.126f, 142-165)。ボストンの人々は人見知りで、とっつきにくいが、内にはとても温かい心を持っているという。著者は日本人の気質と似ているとしている(p.232)。

リンダ・グラットン、アンドリュー・スコット『ライフ・シフト』


100年ライフの大きな特徴の一つは、ライフスタイルと人生の筋道が多様になることだ。どのような人生を生きるかは、一人ひとりの好みと環境で決まる。多様性の時代には、決まったお手本に従っていればいいという発想は通用しない。本書でさまざまな人生のシナリオを紹介するのは、長寿を厄災の種ではなく恩恵の源にするように、3ステージの人生に代わる有効な選択肢がありうることを示したいからだ。(p.179)

医療や公衆衛生の進展により、人間は100年生きることが普通になっていく。現代は明らかに、それ以前の時代と比べて人生の時間が圧倒的に長い。我々の生き方も、この長寿時代にあって変わっていなければならない。若い時に教育を受け、教育機関を出て仕事をし、老年に至って引退するという3ステージの人生は通用しなくなっていく。高齢化社会を迎えた日本では、こうした長寿時代はややマイナスイメージをもって語られる。老後の生活資金や介護費用など。本書は、人間が100年生きることが普通になった社会で何が求められ、どういった人生を送ることができるかを模索する。暗いトーンというより、明るいトーンで書かれている。

キーポイントは、人生は教育、仕事、引退の3ステージからマルチステージになるということ。つまり、人々は人生において複数のキャリアを持つようになる。あるときは仕事をし、ややステップバックして教育を受け、また仕事をするなど(p.25-27)。人生は長いから、ずっとフルタイムで仕事をするようなエネルギーは持ちえない。60歳までならともかく、80歳を超えてまで全力で働くのはかなり難しい。そこで仕事する時期、しない時期を切り替えながら人生を歩むモデルを著者たちは提示する。

そもそも雇用関係も変化していく。大企業が雇用を独占する時代から、中小企業が大企業の周りに集まりエコシステムを作る時代の変化。それは雇用の機会を多様化させることになる。中小企業で専門性が高い職や柔軟な働き方が生まれる(p.94f)。いままで高スキルの頭脳労働はテクノロジーによって代替されるのでなく補完されてきたが、今後は代替されるだろう。その兆しはもう出ている。だが、人口減少社会では、これは悪夢でなく福音だ。「ロボットに雇用が奪われることを心配するより、ロボットが労働力人口の縮小を補い、経済生産と生産性と生活水準を保ってくれることを歓迎すべきだろう」(p.112)。テクノロジーの観点からは、人間の労働者は機械に取って代わられ、いくら教育に投資しても安定したキャリアを築けなくなる。しかし経済学の観点からは、状況はもっと明るい。テクノロジーはそれが補完するような雇用を生むし、経済生産を増やして雇用を増やすし、まだ予見されていない新しい製品やサービスが登場し、新たな産業が台頭する(p.115f)。

単に断続的に仕事をするのでない。仕事に関しても変化の激しい時代。その都度必要とされるスキルを身につつ、仕事を変わっていく。こうした動きにとって重要なのが、無形資産だと著者たちは言う。ここでいう無形資産とは人間関係、知識、健康のこと。これらは得難いものであるし、さらに結局は有形の資産(金融資産)を生むものだ(p.120-124)。「長寿化時代の真の課題は無形の資産のマネジメント」(p.381)なのだ。

こうした無形資産は、生産性資産、活力資産、変身資産という三つの役割を与えられている(p.127-167)。生産性資産は仕事の生産性を高め、所得と今後のキャリアの見通しを向上させる。知識やスキルがもっとも分かりやすい。仕事環境としての同僚・チームや人脈、転職にあたって大きく寄与する評判なども挙げられている。活力資産は健康、友人など。幸福感と充実感を与えるもの。親しい友人たちのネットワーク(著者グラットンの前著で「自己再生の友人関係」と呼ばれたもの)、健康、そしてライフワークバランスである人生のバランス。変身資産とはステージの移行をうまく行うために必要とされるもの。それは自分がどう生きて何をしたいのかというアイデンティティ、新しい世界の情報を得る大規模で多様性に富んだ人的ネットワーク、開かれた姿勢が挙げられる。

教育・仕事・引退の3ステージに代わって(あるいは加えて)、ステージとしてはエクスプローラー、インディペンデント・プロデューサー、ポートフォリト・ワーカーというステージが書かれている。エクスプローラーのステージとは、冒険し、様々な新しいものに出会う「るつぼ」のなかで自分を問い直すステージ。学生のギャップイヤーが少しイメージに近いが、ギャップイヤーの長期版ではない。このステージに適した時期として18~30歳、40代半ば、70~80歳があげられている。これらは人生の転機になりやすいからだ(p.234f)。ただし、単なる放浪の旅ではない。きちんとした計画を立てなければ、有益な結果は得られにくい(p.231-239)。

インディペンデント・プロデューサーとは、自分の職を生み出すステージ。企業組織に属するのではなく、独立して仕事を行う。これは組織に雇われず独立した立場で生産的な活動を行うことが主眼。起業して成功することが目標なのではない(p.239-249)。ある程度経験を積んでからのフリーランサーとしての活動や、シニアの起業などがこれに該当する。経済的に成功する以外の起業のモデルというのは一般的にはあまり明確でなく、本書のこの概念は役に立ちそうだし、深堀りが必要だろう。背負っているものが比較的少ないので、安心して失敗できると著者たちは記す。起業のリスクが高い日本では事情が別だろう。

ポートフォリオ・ワーカーとは異なる種類の活動を同時に行うステージ。副業から始めて徐々にそれらが同じ重みをもつに至る。仕事のポートフォリオのなかから、次のステージへの移行を準備するものが生まれる(p.249-253)。これら3つのステージの間の移行期間として、二つのタイプの移行期間が挙げられている。無形の資産(健康、家族・友人関係、知識)に投資するエネルギー再充填型。新しい知識や人的ネットワークに投資する自己再創造型(p.258-260)。

本書を通じて流れるのは、長寿時代におけるアイデンティティの重要性(ちなみに、この文脈で社会学者ギデンズへの参照が多いのは興味深い)。人生が長くなるにしたがって、多くの変化や経験をする中で自分のアイデンティティとは何かということが問題になる(p.37f, 357-360)。アイデンティティは変化する。長い人生で多くの転機があればアイデンティティが変わり、感情のこもった友情関係を維持するのも難しくなっていく(p.149)。人生が長くなると不確実性が増し、将来の予測可能性が減る。未来に向けて適切な行動を取るには、ありうる自己像について考えていなければならない(p.179f)。100年以上に渡って生産的に生きるには、計画と実験が必要。長寿化により選択の幅が増えていくので、よく計画しないと一貫した選択にならず、悪い結果を招く。選択肢が広がってロールモデルが見出しにくいため、実験して何が自分にはうまくいくのかを知る(p.360-362)。

そして長い人生を支えるのが、自己効力感と自己主体感。自己効力感とは自分ならできるという感覚で、自己主体感とは自分のこととして自ら取り組む姿勢とセルフ・コントロール。無形資産の構築・維持であれ、有形資産の構築であれ、この二つがきわめて重要なものとして扱われている(p.262f, 273-287)。本書の伝える根底のメッセージはこの事故効力感と自己主体感にあるだろう。

未来の話をする本だからか、歴史的な考察は薄め。例えば、1880年代のイギリスやアメリカでは高齢者の就業率は今よりずっと高い。イギリスでは65歳以上男性の就業率は1984年では8%だが、およそ100年前の1881年では73%。1880年のアメリカでは65~74歳の80%が雇用されていた。3ステージの人生とはここ100年もないとてもローカルなものだ。この変化が何を意味するのか、本書に無いのはそうした視線だろう。

アンドレアス・ワイガンド『アマゾノミクス』


何よりもこの邦題は酷いだろう。このタイトルからはアマゾンのビジネスの仕組みと、それを支えるデータサイエンスについて書かれているように見える。しかし本書はアマゾンの話を中心としたものではない。出てくる企業の話ならフェイスブックが一番多い。そもそも著者はアマゾンの元データサイエンティストだが、書いているスタンスはアマゾンからまったく別である。この邦題は原著への冒涜と、読者への詐欺に近いものだ。原題は「人々のためのデータ いかにしてプライバシーなき経済をあなたのために機能させるか」といったものか。原題が適切に表現しているように、いまは巨大テクノロジー企業に囲われている様々なデータを開放して人々のもとに取り戻し、人々のために役立てよう、という趣旨の本だ。"Data for the people"という言い方は、行政を権力者のためでなく人民のものに取り戻すというリンカーンのゲティスバーグ演説を背景にしたものだろう。

本書には、ソーシャルネットワーク上のデータ、IoTなどのセンサーデータ、スマートフォンなどが生み出すライフログといった個人に関する膨大なデータから、どのようなサービスが生み出されているかの実例が極めて豊富。かなり膨大で、事例集としてそのまま役に立つレベルだろう。しかし著者の問題意識は、日々生成されるこれら膨大な個人データが、企業に捕らわれていることにある。すでにこうしたデータは、個人を容易に特定し、リスク判定や将来予測から個人の今後をも判定してしまう。例えばソーシャルネットワーク上でどのような人々とつながっているかで、貸出利率が決まる仕組みなど。これはデータを政府が独占活用するビックブラザーの時代でないにしろ、巨大企業が個人のデータを握り、コントロールし、決定する時代だ。

これに対して、著者はわれわれが自らに関するデータを共有すれば、それにともなうリスクを上回る、本質で明らかな価値が生まれると信じる(p.10)。われわれが個人や社会として、どのような未来を望むかを決めることはテクノロジーには決してできない。われわれの未来に重大な影響を及ぼす基本ルールに関する意思決定を、データ企業の手に委ねてはならない(p.18f)。われわれは受身的な消費者の意識を捨てて、ソーシャルデータの共同制作者という主体的な意識を身につけるべきだ(p.30)。個人のためのデータにより、決定権を企業から個人に取り戻すことが何より重要なのだ(p.301)。

鍵となる要素は2つ。われわれがデータ企業に対してすべてを開示するのと同じように、企業側にもわれわれに対して透明性をもたせること。データの使い方について、われわれ自身が一定の決定権を握ること。すなわちデータの透明性と主体性だ(p.10, 21-24, 163)。

プライバシーという概念は現代において薄れてきている。プライバシーという概念は、煙突が普及した17世紀に生まれた。煙突ができて暖炉の煙が部屋に充満しなくなり、人々は窒息を恐れずに部屋や家を締め切れるようになったのだ。しかしビッグデータの時代では個人は容易に特定できてしまう。現代ではプライバシーは幻想である(p.71)。

こうしたプライバシーにかかわるデータを扱う企業を、われわれは慎重に評価しなければならない。単にオプトイン・オプトアウトの仕組みがあればよいのではない。必要なのはデータの発生や取得の時点でコントロールすることではない。データを持ち利用している会社をどうコントロールするかの発言権を確保することだ(p.218)。そのために、著者はデータの透明性と主体性を確保するための6つの権利を挙げる(p.219-221)。自分のデータへのアクセス権、データ会社の監査権、データの修正権、データをぼかす権利、データの設定変更の権利、データを移行する権利。データ会社の監査については、データセキュリティの監査結果の公表とデータに関わる人の身元調査を求めている(p.233-236)ほか、監査の5つの観点を挙げる(p.240-242)。

われわれにはデータ会社を横並びで評価するダッシュボードが提供されるべきだ。ユーザーが自らのデータを提供するかどうか、このダッシュボードを見ながら判断できるのが著者の願い(p.255-257)。このダッシュボードには例えば、プライバシーデータを提供したらどれだけのリターンがあるか、というプライバシー効率が挙げられている(p.242-253)。けれども、提供量はユーザーがそのデータを入力するのに要した労力だろうか。簡単に入力できてもプライバシー性の高い情報はあるだろう。データからのリターンは利用頻度などだろうか。それで測れるのだろうか。

本書には企業がデータを独占して様々なサービスに活かしている様子もあれば、著者が望むオープン化の方向への例もたくさんある。医療情報を患者個人に開放するオープンノートの話などは大いに参考になる(p.325-327)。

著者の言うことは説得力があるとはいえ、理想論に過ぎるように見える。例えば、パーソナライゼーションのアルゴリズムは公開されていない場合が多く、ユーザーが簡単にオフにできるべきだという(p.155)。しかしアルゴリズムの公開などなされないだろう。データを容易に移行できるようにするには、どんなデータを取得してどのように保持しているかが明らかにされなければならない。しかしこうしたことは、まさにデータを活用する企業のきわめて核心的な利害である。それはデータサイエンティストとしての著者がもっとも理解しているはずだ。また、消費者はあらゆる商品の生産地、製造ラインの状態、店頭までのルートの情報アクセスを保証されるべきという(p.297)。ここには生鮮食品も含めるというから、膨大なコストがかかり、現実的ではないだろう。

本書にはアメリカ型(というより西海岸的な)個人主義の傾向が色濃くみられる。データは揃ったのだから我々は主体的に判断しなければならない(p.338)。すべてのデータは明らかにされ、人々はそれらをもとに主体的に判断し決定しなければならない。最後にプラトンの洞窟の比喩が出てくるのが、この啓蒙主義的トーンを象徴する(p.339-341)。

けれどもデータ開示の現実性とは別に、人々は自分に関する膨大なデータを前に、判断できるのだろうか。過剰なデータは情報量を増大させるというより、ノイズを増幅させるのではないだろうか。もちろんデータ企業に独占させたままでよいというわけではないが、開示されれば解決への道が開かれるだろうか。プライバシーなき社会で人々はどう生きるのか。複数のアイデンティティ、n個の性・・・もしかして我々はもうすでにそうやって生きているのではないか。

山本拓・竹内明香『入門 計量経済学』


計量経済学のよい入門書。計量経済学はデータサイエンスからとても近いところにある、あるいはその一部とも言える。経済データを使って相関関係を分析する。中心的なツールは多変数線形回帰。基本的な手法だがその有効範囲は広い。機械学習の入門書とはまた違う趣の記述になるので、別の観点から同じ問題を見ているようで面白い。

特に印象に残ったところは、残差が同じなのに決定係数が異なる例。非説明変数が異なる場合は、決定係数によるモデルのフィットの単純な比較は困難との注意(p.109-112)。また、系列データに対するダービー=ワトソン統計量と、系列相関がある場合のコクラン=オーカット法の解説は平易でとてもよい。けれども、単位根検定が出てこないのはなぜだろう(p.195f)。