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ジャック・ル=ゴフ『中世とは何か』


西欧中世の歴史研究家のインタビュー。ちなみに著者は「中世」という言葉を西欧以外の時代区分に使うことに疑問を呈している。インタビューワーに答えて、自分の研究史や、研究における主要主題について語っている。会話なので平易では在るが、精緻な論証などはない。話題が薄く次々と移っていくので、あまり印象は良くなかった。

西欧中世への見方は、ルネサンス期に先立つものとしての暗黒の中世と、カトリックによる統一のもとにあった黄金の中世という二つの見方がある。暗黒の中世観の流布に寄与したのはペトラルカ。黄金の中世の方は、シャトーブリアンなどフランス革命後の人たち(p.24-30, 77f)。もちろん、黄金の中世とは暗黒の中世の裏返しにすぎない。そのような後世からの視点ではなく、それ自体としての中世を著者は探ってきた。著者によればむしろ、史料の欠乏している古代、過剰な近現代と比べて、中世と16世紀はほどよいものだという。逆に、近現代には新しいアプローチ、問題意識を採用すべきではないかと提言する(p.56-61)。資料に頼りすぎることの戒めは、第二次世界大戦においてレジスタンスを展開した人々の生々しい生き方を経験したことから来るという(p.39)。

中世とルネサンスを区別したのはブルクハルト。彼が中世に蒙昧という性格付けを与えた。かくして歴史は進化となり、近代は進化の最終形態となる。これは国民国家の起源探しと関連している(p.80-85)。けれども、歴史は連続した流れである。同時でない一連の変化が、歴史の進展を画していることもよくある。どんな変化も、ただ一つの日付、事実、場所、活動領域に帰着されることはない(p.71-, 86-90)。このあたりはアナール学派らしいところか。

むしろルネサンスも中世に含める。中世には3つのルネサンスがあるとする。それらは、カロリング朝ルネサンス、12世紀ルネサンス、いわゆる15-16世紀のルネサンスの三つ(p.91-112)。ルネサンスは古きものの再生であって、新しいものの創造ではない。中世において、新しいものとは恐怖の対象であり、非難の言葉だ。古くからの考え方を再生することにこそ、中世は価値を置いていた(p.92-94)。中世と近代の断絶は、決定的には16世紀にある。16世紀には、宗教という概念が初めて登場する。それまではすべてが宗教のうちにあって、宗教を相対化して捉える必要すらなかった。宗教という概念の誕生は、中世との本当の断絶を示している(p.107f)。

著者のテーマの一つは、中世における商人と知識人の成立にある。俗世において金銭を稼ぐことは、それまでは評価されていなかった。その役割は多くユダヤ教商人によって担われていた。12世紀に、キリスト教徒商人が隆盛する。その正当化の理由としては、労働の対価としての金銭、東洋と西洋の間の国際貿易を担う有用性、芸術(技術者から芸術家へ)の庇護などがある(p.141f)。

身体的なものへの着目も面白い。商人の隆盛と合わせて、現世的なものへの関心が強まっていく。この世界における身体はその象徴的な例だ。神の表象も、当初の天なる父から、中世ではこの世界における子に移る。中世においては、人間の身体は神の似姿として位置付けられる。この視点は、宗教改革において聖霊に移る(p.246-248, 274-276)。時空的位置づけをもたない天国と地獄に対して、時空を位置づけられる煉獄の登場も、これに関係するだろう。中世は時空管理から理解することができる(p.197-200)。ただ、自然の中の人間の身体への着目が、自然でないとするものへの迫害を生んだことも忘れてはならない。同性愛者、ユダヤ人に対する迫害だ(p.256-259)。

他にも聖体拝領、暦、教会法、十字軍、天使と悪魔といったトピックについて語られている。
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油井正一『ジャズの歴史物語』


古き名著。ジャズの歴史について、ダンスなどエンターテイメントとの関係、人種問題、政治や戦争の問題を絡めながらも、極めて平易に見通しよく書いている。複雑なジャズの歴史を鮮やかに描写。特にアメリカから離れた視点をもち、アメリカ内ではとても書けないであろう、人種問題との絡みなども扱えている。

ニューオーリンズで始まったジャズを前期。スイングからビ・バップまでを中期。モード・ジャズからフリーへの移行を後期。それぞれ1910-1930、1930-1950、1950-1970くらいの年に当たる。本自体が1972年刊、実際の執筆はそれより前の雑誌連載。よってオーネット・コールマン、コルトレーンがフリーを始めたあたりで本書は終わる。エレクトリック・マイルスやハンコック、コリア、フュージョンへの展開は少し述べられる。もちろん、VSOPやジャレットなどのスタンダードの回帰などはない。

曰く、ジャズの歴史には3つの大変革があるという。ルイ・アームストロングのジャズ界制圧、ビ・バップの発生、オーネット・コールマンの出現だ(p.93, 292)。ただ、サッチモに代わってチャーリー・パーカーを挙げている箇所もある(p.203)。なかでもオーネットの記述は目を引く。オーネットはジャズにフリーを持ち込む。その音楽は突然現れたものであり、「誕生以来、ひたすらヨーロッパ音楽寄りに同化を試みてきたジャズが、その存立の根本を問われた一瞬である」(p.203)。

そもそもジャズは20世紀の初めころ、ニューオーリンズの黒人ブラス・バンドから起こっている。解放後、自由市民となった黒人は音楽が充満しているこの町ニューオーリンズで、南北戦争(1861-65年)で敗れた南軍軍楽隊が残した楽器を安く手に入れ、ブラス・バンドを組織し、アルバイトとしてかせぐ手段を考えついた(p.14)。ここでクレオールとの関係が書かれるのが、とても興味深い。ジャズはアメリカにおける黒人とヨーロッパ音楽の出会いから生まれている。このヨーロッパ音楽は、実は白人がもたらしたものではない。人種差別の激しかったニューオーリンズで、白人と黒人が共演できる機会はほとんどなかった。ヨーロッパ音楽をもたらしたのは、ルイジアナがフランスからアメリカへ割譲される以前から住んでいた、フランス人やスペイン人と黒人との間のクレオールだ。奴隷解放令によって地位が向上した奴隷の子孫と、地位の下がったクレオールの子孫が対等になり出会ったのだ(p.18)。

しかしニューオーリンズは、第一次世界大戦において軍港となる。海軍長官の指令により、ニューオーリンズの遊郭・歓楽街ストーリーヴィルが消える。ダンスホールやキャバレーで演奏していたジャズメンは場を失う。こうして人々は、黒人労働者を大量に必要としていたシカゴに移る。ジャズという言葉が誕生したのは、そのシカゴにおいて(p.22-24)。

著者は黒人ジャズのみならず、白人ジャズも中立に評価する。白人ジャズを確立したビックス・バイダーベックについて、著者の評価は高い。もっもと好きなミュージシャンとも書かれている(p.56-61)。何よりもジャズを普及させたのは白人だった。ジャズが初めて全世界の注目を浴び、大衆の音楽となったのは、ベニー・グッドマン楽団。世界恐慌後の1935年にグッドマンはスイング・ブームを起こし、幼児から老人まで熱狂させたのだった(p.71)。黒人のみでジャズが発展してきたというのは誤りである。バードへの白人プレイヤーの強い影響が語られる。バードはジミー・ドーシーとフランキー・トランバウァーを好んだ(p.136)。

ヨーロッパでのジャズ受容についてはさほど扱われていない。とはいえ、ヨーロッパにおいて早い段階で高水準のジャズ批評があったことが書かれている。指揮者として有名なエルネスト・アンセルメが、シドニー・ベシエを絶賛したのは1919年(p.75-78)。ヨーロッパとの関わりでは、デューク・エリントンが好きだったイギリス王室の話が味わい深く語られる。エリントンのレコードを一枚残らず収集していたプリンス・オブ・ウェールズ(後のウィンザー公)。第二王子のヨーク公(後のジョージ6世)もエリントンにピアノソロをリクエストしたという(断られた)。王室きっかけでイギリスは大不況時代にジャズが普及していく(p.110-113)。

1941-45年の過渡期にジャズはビッグ・バンドからコンボ、特にバップに移行していく。この過渡期は最も解明が難しいとされている。ダンスへの課税によるダンスとジャズの絶縁、著作権管理団体ASCAPとBMIの対立、戦争への招集など。そもそも、アメリカ音楽家連合会(AFM)のジェームス・ペトリロ会長によるストライキ指令により、この時期の録音が少ない(p.85-87)。1940年後半からニューヨークのジャズは不況を迎える。代わりに、朝鮮戦争の兵站基地となったロサンゼルスが新しいジャズの中心地となる。ジャズメンが移動する。ショーティ・ロジャース、ジェリー・マリガンがニューヨークから転居。カルフォルニアからデイヴ・ブルーベックが出る。白人ジャズメンのなかには、バルトーク、ストラヴィンスキー、シェーンベルクといった同時代のクラシック音楽を目指した者もあった(スタン・ケントン)。だが、この白人ジャズメンの音楽教養が逆に西海岸のジャズを衰退させる。1950年後半には衰微(p.179-184)。

1950年代なかばから、再び東海岸にジャズが盛り上がる。この時期のジャズは特に、1960年台に"black is beautiful"に代表される、黒人の黒人たる価値を見出そうとする機運と関連する。最初は黒人教会独自のゴスペル音楽を取り入れたファンクだった。しかしファンクはすぐに一般化してしまった。ここに位置付けられるのがオーネット・コールマンだ。オーネットの出現は前代未聞であり、白人には模倣できない黒人独自の音楽となったのだ(p.203-205, 215f, 236-238)。黒人ジャズメンはオーネットに触発される。ソニー・ロリンズ、ジョン・コルトレーン。なかでも、エリック・ドルフィーはバードとオーネットをつなぐ役割を果たしている(p.253f)。

「余滴」と題された補遺には録音技術、ジャズのファン層、人種問題、ダンスとの関わり、ラテン音楽などが語られる。こちらもとても面白い。第二次世界大戦中にアメリカ政府が軍隊慰問のために作成したVディスクの話題など、古くからレコードを蒐集してきた著者ならではだろう。

高嶌幸広『「話す力」が身につく本』


例えば突然スピーチを頼まれても話せるようにするには。主に上下関係における円滑なコミュニケーションとは。聞き上手になって相手の本音を引き出すには。

上手に話すには基本的なルールがある(p.17)として、ルールを解説。スピーチで話す内容を紙切れに書き出してみて、話す順番を考えていく紙切れ法(p.77-84)など。スピーチで間違ったり頭が真っ白になったら、そのこと自体をネタにして話してしまえば良い(p.104, 114-121)なんてところはちょっと面白い。分量の都合もあるのだろうが、原則として性急にまとめ過ぎなようにも見える。

自分にはあまり刺さらない類のこうした本を読んでいて思うことは、ある原則が述べられていても、それをどう身につけるのかが分かってこない。「~ということに気をつける」とあったとして、ではどのように日常的に気をつけるようになるか。メタ原則のようなもの。

ジョージ・エインズリー『誘惑される意志』


意志の弱さについて。後々の影響を考えれば明らかに行わないほうが良いのに、なぜ目先の誘惑に負けて行ってしまうのか。そうした誘惑に負けない仕組みとしての「意志」とは何か。意志を持つことの進化的意味合いは何か。意志が強いことは本当に良いことづくめなのか。本書はこうした話題に、双曲線割引という単純な論点を基にして、実に広範囲な議論を展開する。

議論が広範囲に渡ることもあり、経済学、社会学、行動心理学、生物学等に及ぶ広い範囲の基礎知識が読者にも要求される。しかも比喩や事例などによる説明があまりうまくないので、とても読みにくい本になっている。訳者も言うように、本書がもっと上手く書かれていたらとっくに現代の古典として普及していたであろう内容。訳者解説がとてもうまく書けているので、そちらを先に読んで、ときおり再読しつつ、本文を読み進めるのがよい。

人間に限らず生物の意思決定においては、時間的に後の事柄はその価値が割り引かれる。普通の理論では、この割引率は一定と仮定される。したがって時間を横軸、価値を縦軸とすると、その割引曲線は指数関数のグラフとなる。意思決定は最大の満足を達成するように行われるという効用理論、あらかじめ持っている欲望の優先順位に従って認知的に判断がされるという認知理論という二つの大きな伝統的理論の双方において、指数関数的な価値割引が前提とされている。そして、これら二つの理論では非合理的で自己破壊的な行動は十分に説明されていない(p.44)。ちなみに、この価値割引は生物に限らず、強化学習でも報酬は一定の割引率で将来に渡って割り引かれる。

著者はこの指数的割引に代わって、双曲線関数による双曲的割引を主張している。これが本書のすべての鍵となる。双曲線関数による割引は、単にそうすると理論的に説明がつくということではない。人間やハト、ラットなどを使った実際の実験結果に基づいての主張だ(p.50-55)。

そもそも非合理的で自己破壊的な行動は、典型的には中毒症状。また、ダイエットなども典型例。行為がもたらす客観的価値については、行為Aのほうが行為Bよりも大きいことが分かっていながら、行為Bの実現機会が極端に近いと、行為Bのほうがもたらす価値が大きいように扱われる。指数的割引では、行為Aと行為Bはいつの時点で比較しても、それらの値は本来それら行為がもたらす客観的価値に比例している。指数的割引では一定の割引率で将来に渡って割り引かれているため(すなわち指数関数の微分は常に一定)。したがって価値の逆転は起こらない。いま、時点tにおける行為Aの割引後の価値をVa(t)と書こう。行為Aの実現時点をtaと書けば、行為Aの客観的価値はVa(ta)。指数的割引では、行為Aと行為Bの価値はどの時点で比較しても、客観的価値に比例する。現時点t0において行為Aのほうが行為Bよりも価値が大きい、すなわちVa(t0) > Vb(t0)であれば、任意の時点tにおいてVa(t) > Vb(t)となる。グラフで言うと、Vaのグラフは常にVbよりも上に来ており、どこかの時点で逆転することはない。

一方で双曲的割引では事情が異なる。双曲線関数のグラフは指数関数のグラフよりも下にしなっている(と著者は書いているが、そうなるように双曲線関数(x^2/a^2 - y^2/b^2 = 1)のパラメーターa, bを設定するということ)。ゆえに現時点t0において行為Aのほうが行為Bよりも価値が大きい、Va(t0) > Vb(t0)と評価されていても、双曲線では傾きが急増するために、tbに近い時点tb'ではVa(tb') < Vb(tb')となりうる。したがって、客観的価値としてVa(ta) > Vb(tb)と行為Aのほうが大きな価値をもたらすと評価しつつ、かつ、割り引かれた現時点での価値でもVa(t0) > Vb(t0)と行為Aのほうが大きいと評価しつつ、なおも、行為Bの実現機会が近づくといきなり行為Bのほうがもたらす価値が大きいVa(tb') < Vb(tb')と判断されるというモデルが作れる(p.51)。これこそ、誘惑に負けた非合理的な自己破壊的行為のモデルであり、しかも多くの実験で支持される。指数割引を前提とする理論では自己破壊的行為を説明するために、副次的な選択要因を数々持ち出してくるが、双曲割引で作り出される短期の報酬を認めさえすれば、そんな必要はない(p.103)。

こうした割引後の価値の逆転に抗して、客観的価値に基づいて意思決定を行おうとする時に、意志が登場する。意思決定の場に上る様々な選択肢は、意識の関心を巡って奪い合いをしていると考えることができる。すなわち、自らを実現すべくリソースを奪い合う。効用理論のように単に最大の利益が選ばれるだけなら、たしかに自我、意志などいらないだろう。自我、意志とは中心に位置するものではなく、利益同士の協力を仲介するブローカーのような役割を果たす。自己は単一の機関ではなく、反復的囚人のジレンマにある暗黙の協力関係を寄せ集めたものだ(p.146-149)。ちなみにここでこの選択肢には、良いもの・快楽だけでなく痛みなど不快なものも含められている。報酬と快楽は異なるものだ。報酬とは意識の関心を他のよりも強く引いたとき、他より報酬が多かったと考えられる。したがって痛みは他の思考や感情よりも意識の関心を強く引く限りで、報酬が大きい。痛みも意識の関心を巡って他と競合している(p.90-94)。痛みから開放されるという利益をもたらす。

意志というのは、客観的価値の高い選択肢が、現時点だけ価値が高く割り引かれている短期的な選択肢に対抗する戦略だ。すなわち、意志とは異時点間の交渉状況である。その内実は、ある行動を一連の類似行動の前例としてグループ化・分類することだ。選択を束ねることで双曲線は指数関数に近づき、直近の利益に左右されない我慢強さが達成される(p.150-154)。「ここで誘惑に負けたら、これからもそうなる」といった具合に、行為の一般化を行うことにより、直近でのみ価値の高い行為を排除する。逆に、直近でのみ価値の高い行為での誘惑はいつも、「いまだけは特別、一回だけ」となる。何らかの理由をつけて、いま一回だけは行為が許されるとする。ダイエットで言うと、「今日は特に頑張ったからOKとする」とか「明日から本気出す」とか。ここで問題となっているのは、自分への信頼性である。意志とは、信頼性が力となるような交渉状況のことだ。意志した行為をしなかったら、自分の意図の信頼性が下がり、その後に自分が意図できることが少なくなってしまう(p.191f)。この自分への信頼性を確保するために、実に多くの戦略が取られる。他の人に意図を宣言するとか、神頼みとか。

自分への信頼性は、将来におけるフィードバックループをなしている。誘惑に負けた自己破壊的な行為を、意志を働かせて防いだとする。これは成功体験となる。後の時点で、あのときはできたという体験に基づいて意思決定のプロセスが変化する。決断を行うことと気まぐれに従うのを分けるのは、そこに懸けられている自己参照的な結果に対する配慮、つまり将来の報酬に対する自分の期待である。選択は再帰的に作用するので、その都度の選択が後にどう作用するかは事前には分からない。つまり、カオス理論のようなフィードバックが働く。このことは、意思決定したことが行為されるという決定論と、どのような意思決定がされるかは分からないという自由意志の問題を両立させる(p.196-200)。

本書の大きな特徴として、意志があることの問題点を挙げていることがある。通常、意志が強いことは良いこととされる。短期的な利益に振り回されず、合理的な意思決定が可能となると。著者は意志力が強すぎることの副作用として4つを挙げる(p.218-238)。(1)感情的な即時性の喪失。つねに合理的な判断がされるようになったら、いまここでの体験を味わう能力は低下してしまうし、選択肢も狭まってしまう。(2)行動の特定部分のコントロール放棄。もし意志による自制に失敗すると、それが前例となってしまう。将来似たような状況で自制できるという自分への期待は下がってしまう。これは再帰的、というより自己実現的に働き、実際に自制できる能力を下げてしまう。(3)自分の動機に対する盲目性。失敗が将来に渡って意志力を低下させる大きな問題となってしまうので、失敗をそもそも認めないインセンティブが働く。自分の行動に対する認知ギャップが生まれてしまう。(4)細かい報酬への応答力の低下。意志力による自制の戦略は行為をグループ化することだった。したがって細かな個々の報酬に対して、杓子定規的な一律の基準で評価される。それだけならいいが、ひどくなると強迫観念じみてくる。ダメなものはダメ、と。

すなわち「最終的には、意志というのは将来報酬の双曲割引が創り出す衝動性に対する限定的な解決策でしかない」(p.300)。著者が見るところ、現代社会は意志がもたらす問題をあまり認識していない。短期的な利益、衝動、誘惑に惑わされることなく、長期的で合理的な利益を実現することを奨励しているし、そのための様々な手段を提供している。しかし、衝動だけでなく意志力も人間を脅かすのだ。甘いものや脂っこいものを食べる誘惑に負けて、肥満となるのは問題だ。しかし肥満になるまいとする意志による自制があまりにも強すぎ、過度なダイエットや拒食症に至るのもまた問題だ(p.230)。意志は完璧ではないのだ。

また、ここに意志の重大なパラドクスがある。意志によって、短期的な衝動や誘惑に振り回れることなく、客観的に見て最大の報酬を得ることができる。しかし意志が報酬獲得に上達すればするほど、最終的に獲得できる報酬は減ってしまうことになる。なぜなら、意志が形成されるのは規則的なステップを持つ作業に対してだけであり、そうした作業は充足が容易に予測されてしまうからだ(p.261)。つまり強い意志による合理的な意思決定は、単純に言ってつまらない。そうした人生には驚きがないし、結局のところすべてが予測可能になって満足も少ない。

双曲的割引の進化的意味合いはおそらく、この意志のパラドクスにあるだろう。双曲的割引は一見して奇妙だ。ほとんどの人は指数割引の合理的な価値構造を信じている(p.166)。実際、双曲割引曲線は多くの効用理論が前提とする指数関数よりも不利で不合理となる。なぜなら劣った早期の選択肢が、直前になると優位に見えてしまうのだから。双曲的割引が進化的に生き残ってきた意味を著者は、(1)個体を犠牲にして遺伝子を保存するに役立ったこと、(2)環境を大幅に変更してしまう人間のような存在が登場するまでは無害だったこと、という二つの仮説を提示している(p.69-73)。すなわち、利益は基本的に個体の利益で考えられているので、あまりに合理的に意思決定されると逆に種の利益を損なう。訳者が解説しているように、合理的には結婚や育児はとても割に合うものではないので、子孫を残す人はいなくなり種は滅びる。そこで目先の誘惑に負けて異性を押し倒してしまったほうが、子孫を残しやすい(p.317)。また二つ目の仮説は、先に書いた現代文明の問題になる。科学技術の発展によって環境の制御力が飛躍的に高まったため、意志が強いことの問題が浮かび上がってきた。

しかしおそらく、これはイノベーション理論や強化学習で言われる、探求explorationと活用exploitationの問題だろう。著者もそれに触れている。指数割引でなく双曲割引が用いられるいうことは、外部刺激で完全にコントロールされる機械的な報酬ではなく、感情的報酬の機会を価値あるものとしていることだ。獲得が上手になると、鮮烈な報酬でも習慣化して感動が薄れてしまう。これに対して、双曲割引ではその都度の感情を重視することになる。これは、新たな環境を探求し続けるような動機を生み出してきたのかもしれない(p.254f)。

まさにその通り。双曲割引によって直近の衝動や誘惑に負けることは、環境の新たな探索を可能にする。いままでの経験から構築した最良の行動パターン(政策policy)ではなく、たまには冒険してみることが大事。そうすると新たなものが見つかるかもしれない。双曲割引はこうした冒険を可能にしている。したがって進化的には極めて重要な意味があるだろう。それは個体と種の対立を超えている。冒険して新たな経験を得ること、新しい世界を知ることは、何より個体にとって楽しい(人生が豊かになる)。でも、合理性を推し進める科学技術って、もともとはこうした好奇心を出発点として来たものではなかったか。。。合理性の追求には非合理的要素が必要だということか。

探求と活用のバランスでいうと、強化学習では報酬は指数関数的に割り引いたまま、例えば確率的に探求と活用を振り分けるε-greedy法がある。それによって広い状態空間の探索を可能にしている。けれども本書のように、報酬の割引を双曲線関数にしたらどうなるんだろう。

納富信留『哲学の誕生』


ソクラテスについて。プラトンの対話篇に現れれるソクラテスを中心に書くのではなく、同時代においてソクラテスがどう捉えられていたのかを中心に据える。ソクラテスと言えばプラトン、アリストテレスと並んで古代ギリシャの偉大な哲学者。しかしその偉大さは後世の評価。その後世の視点からソクラテス、プラトン、アリストテレスを評価しても、それは彼らを巨人として扱ってきた西洋哲学の伝統から見ること。よって、結局は巨人としての姿しか見えない。重要なのは同時代の思想において評価すること。それにより別の姿が見えてくるはずだ(p.63f)。

本書にはソクラテスについて言われることのうち、有名な事柄をひとつずつ検討する。ソクラテスの死、哲学の始まり、ソクラテス文学(ソクラテスの言説について書かれたもの)、ソクラテス裁判、同時代や弟子への影響を代表してアルキビアデスについて、そして日本でのソクラテス受容(とくに「無知の知」について)。

ソクラテスと哲学の関係については、本書のメインテーマ。示唆の深い論述がされている。従来はギリシャ哲学について、ソクラテスを分岐点としてソクラテス以前・以後という言葉遣いがなされた。しかしソクラテス以前という区切り方は、ソクラテス以前の哲学は自然の探求であり、ソクラテスにおいて人間や倫理に目を向ける哲学探求が始まるという先入観によるもの。それは自然の探求を二流の哲学とみなしている。この先入観はソクラテスと時代が前後する思想の位置づけを困難にする。ソクラテス以前にも人間や倫理に対する探究がある(ヘラクレイトスやエンペドクレス)。逆にソクラテス以後にも自然の探求がある(デモクリトス)。さらには、同じく倫理や政治について議論したソフィストを哲学の始まりから排除してしまうことになる(p.54-59)。

ソクラテスを哲学の始まりに位置づけたのは、何よりもプラトンだ。ソクラテス裁判からその処刑までのソクラテスを扱ったプラトンの『パイドン』を、著者は見事に読み解く。この対話篇の場所設定はアテナイではなく、フレイウスという小さな町。なぜフレイウスなのかというと、ここはピュタゴラス派の故郷であると同時に、何よりもピュタゴラスがこの地で哲学者を名乗りだしたからだ(p.18-27)。つまりプラトンはみずからの哲学を位置づけるため、ピュタゴラスの哲学が誕生したフレイウスで、ソクラテスという哲学者の死を語らせている(p.36-41)。

プラトンのソクラテス対話篇はソクラテスの言行録というよりも、読むものを哲学の現場へ連れ出す。同じくソクラテスについて言行録を残したクセノフォンとの対比が参考になる。クセノフォンは基本的に、ソクラテスの言行を再現して人々にその模倣を薦める。一方でプラトンはソクラテスの問いの現場そのものを想起させ、普遍的な答えへと人々を導いている(p.122-129)。

とはいえ、プラトンとクセノフォンのどちらのソクラテスが「正しい」のかというのは愚問だ。ソクラテスにまつわる言説は基本的にはすべてが創作である。プラトンだけが対話篇の時代考証に正確(p.112f)とはいえ。ソクラテスについて言説を残したアリストファネス、プラトン、クセノフォン、アリストテレスのどれが正しいソクラテスか、といういわゆる「ソクラテス問題」は誤った問題である(p.129-136, 182-191)。しかもこれら著者は同時代ではない。アリストファネスはソクラテスの同時代人。プラトン、クセノフォンはソクラテスの死後、ソクラテスについて書物を残した「ソクラテス文学」の人々(他にはアリスティッポス、アンティスエテネス、パイドン、エウクレイデス、アイスキネスが挙げられるが、その書物は散逸)。アリストテレスは、アリストクセノスと並んでそれらソクラテス文学の影響下でソクラテスについて物している。

ソクラテス裁判の背景として、アテナイの30人政権が扱われている。紀元前404年にペロポネソス戦争でアテナイがスパルタに敗れ、降伏する。その後、アテナイではクリティアスを中心とする親スパルタの30人政権が成立する。30人政権は恐怖政治を敷いたという。1年後には反対勢力が盛り返し、アテナイで民主政が復活する。ソクラテス裁判はこの4年後、紀元前399年のこと。ソクラテスはこうした政変において当事者を弁護する裁判で活躍している。ソクラテス文学の始まりは、ソフィストのポリュクラテスの議論力顕示に応えたソクラテスだ。クセノフォンは直接に応答する様を描き、プラトンは暗示するのみ(p.151-165)。30人政権のクリティアスはプラトンの母方の従兄であり、ソクラテスとも親しかったという。民主政に変わった後のアテナイでは、駆逐された旧勢力と親しかったソクラテスの立場は、もともと弱かった。

このアテナイの政変とその背景を巡って、アルキビアデスという人物が魅力的な動きをする。この人物は野心家で敵に寝返ることも多く、毀誉褒貶が激しい。アルキビアデスはソクラテスの弟子だったとも言う。しかしアルキビアデスを扱った章では、アルキビアデスそのものの記述が多く、焦点がややぼけている。ソクラテスとの関係についても、そしてそれがアルキビアデスや、その後のアテナイでのソクラテスの立場にどんな影響を及ぼしたかについても、やや不明瞭。アルキビアデスとソクラテスについて何が書きたかったのだろう。アルキビアデスとソクラテスの愛(エロース)の関係なのか、ソクラテスに惹かれつつも離反するアルキビアデスの姿なのか。

ソクラテスの日本受容については、何よりも人口に膾炙した「無知の知」をソクラテス哲学の要諦を表すものとすることに疑義が呈されている。「無知の知」からソクラテスを理解することは、完全に誤りであり、さらに害のある誤りだと言う。これはとても参考になる。

「無知の知」への批判は3つ、文献学的、哲学的、歴史的なもの(p.274-307)。文献学的にはそもそも、「無知の知」に相当する表現はプラトン対話篇にはない。あるのは「知らないと思っている」「知らないと自覚している」という表現であり、知識と信念を混同してはならない。ソクラテスより賢いものはいないという有名なアポロンの神託も、ソクラテスに他の人が持たない知恵を帰しているのではない。知らないことを自覚していないのが無知(amatia)、知らないことを自覚しているのが不知(agnoia)であり、この二つの混同が誤解を生んでいる(p.293f)。つまり自分がもつ知識についての透明性の話。

哲学的には、『カルミデス』で無知の知がソクラテスにより批判されているとする。とはいえ、著者の展開するこの議論は読みにくい。『カルミデス』での議論をもっと展開しないと説得力がないだろう。自分を知らないと明言しているなら、積極的にむしろ無知の知が帰属できるのではないだろうか。知識でないにせよ自覚もまた「知っている」と言われうる。また「知らないと思っている」という一方で、当人が本当に知らなかったら、知識とは真なる信念であるという定式のもと「知らないと知っている」と知識を帰属できるだろう。さて、自覚を知識と呼べるのかどうか。また著者はアポロンの神託に関連して、本当の知は神にしかないということを何度も取り上げる。しかしこれに固辞するなら、人間の知識という議論が一切成立しなくなってしまう。

歴史的な経緯としては、明治期以降の日本でのソクラテス受容においては、ソクラテスを教師、知あるものとしたから、他の人にない「無知の知」という知識を帰属したのだろうと書かれている。著者が無知と不知で区別した、知識とその自覚の区別はストア派ですでに消えている。やがてキリスト教哲学の否定神学の流れで「無知の知」といった表現が定着する。日本ではクザーヌス的な否定神学とソクラテス哲学が結びついて受容されているという見立て。