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アレックス・ラインハート『ダメな統計学』


統計学の誤用について楽しく書かれた本。内容はしっかりしているが読み口はとても平易。科学研究における統計学の誤った使い方について、実例を挙げながら述べている。著者は物理学から統計に転じた人物。けれども、実例には心理学や医学の論文が多い。科学研究そのものに対するメタ研究など、広い範囲で多くの論文を参照している。

本書の前半でよく出てくるのは、p値に頼りすぎることについての問題だ。p値という概念はとてもわかりにくく、様々な誤用があることは広く知られている。かの『ネイチャー』に載った論文ですら、38%の論文でp値に誤字か計算間違いがあるという(p. 121)。特に著者が述べているのは、真のケースと偽のケースの数の差が大きい時には、p値が基準より低くても信頼できないこと。これは基準率の誤りと呼ばれる。マンモグラフィーによる乳ガン検査の例が分かりやすい。
マンモグラフィーを受ける女性のうち、0.8%が乳ガンにかかっているとしよう。こうした乳ガンの女性のうち、90%はマンモグラフィーで正確に検出できるものとする。しかし、まったく乳ガンにかかっていない女性の7%がマンモグラフィーで陽性と判断されてしまう。このとき、マンモグラフィーで陽性の結果が出た場合、乳ガンにかかっている確率はどのぐらいだろうか?検査対象者が男性である可能性を無視すれば、この答えは9%になる。(p.53)

こうした状況では、検定対象が乳ガンにかかっているという仮説の p値が基準値以下だったとしても、偽陽性である可能性は非常に高い。p値だけを見るのではなく、基準率(真なるケースの割合)を考えることが重要だ。

そして著者はp値よりも信頼区間を用いることを推奨している。信頼区間の方が情報量も多いし、分かりやすいのにも関わらず、なぜか広く使われていない(p.14-17, 29f)。2種の薬をそれぞれ独立に偽薬と比較する場合にはp値に差が出ても、お互いに比較すれば差が無いという結果が出ることもある(p.69f)。このような場合、信頼区間を計算しておけばより明瞭になる。実験心理学では研究論文の97%が有意性検定を含んでいるのに対し、およそ10%しか信頼区間を報告していない。この状況に対する説明としては、信頼区間の幅がしばしは困惑するほど広いために報告がされないということと、査読を通じた科学における同調圧力の存在が指摘されている (p.15f)。

しかしp値よりも深刻な問題は検定力にある。標本数が足りずに検定力が低く、結果を信頼できないというケースが多く存在している。0.8程度が必要な検定力に対し、例えばコーエンの調査では普通の研究で0.48程度の検定力しか存在しないことが述べられている(p.26)。研究を始める前に、どの程度の研究をすれば必要な検定力が確保されるかを計算しているのは、『サイエンス』や『ネイチャー』でも3%未満という状況(p.24)。検定力が足りない事態が発生するのは、検定力の計算が難しく、また計算するツールもないという事情もある。しかし大きな問題は、研究者は最も刺激的な結果をいち早く発表しようと競争しているという事実にある。これは事実の誇張、M型の過誤、勝者の呪いといった言葉で表現される(p.32)。

本書の大部分は、こうした勝者の呪いを巡っている。この呪いを解くためにいくつもの方策が考えられる。研究を始める前に分析計画を立案するのは、重要な一歩である。分析計画はデータの収集を始める前に立てられていなければならない。データを見てから仮説を決めたり、外れ値を決めたりすると偽陽性率は容易に高まってしまう。こうしたところで研究の自由を行使してはならない(p.113-116)。循環分析、データの二度漬けといった事態も大きな問題だ。これは例えば神経科学で、反応するニューロンを特定してから、そのニューロンの反応具合を調べるような二段階の手続きに潜む問題。そもそも反応するニューロンを選んで行っているので、そのままこの二段階でデータを使いまわすと、意図しない結果を生む(p. 80-83)。

さらに勝者を呪いを避けるためには、何よりもデータの再現可能性が必要だ(p.124-130)。他の研究者が研究に用いたデータはなかなか再利用することができない。そのデータが使えなければ、その結果を検証することは難しい。また独自の研究ではなく他の研究の検証に時間を費やすモチベーションは低い。さらに言えば、結果の出なかった研究も公表されるべき。つまらない結果、有意ではない結果が公表されないと、公刊の偏りに陥る。有意な結果の有意性について、その詳細が明らかにならない。また、有意でない結果について他の人が無駄な重複研究を行ってしまうかもしれない(p.131-148)。

かくして統計教育の必要性が訴えかけられる(p.152-162)。ただし、統計についての我々の誤解は根強く、ただの講義では誤解を解くことができない。そのため、事前学習でまず学生に一人で結論を出させ、その誤りを授業で正すことで、誤解を意識させる工夫が必要だとしている。また、データの扱い方についての研究プロトコルを学界で標準化することの必要性や、統計の専門家を研究に引き込むことといった方策が説かれている。

科学研究を中心としたものだが、統計を用いることの危うさについて、豊富な実例に基づいて分かりやすく述べた良書。あとはこれを統計理論まで踏み込んで書いている本があればよいのだが、そんなのあるのだろうか。
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金谷治『中国思想を考える』


中国の思想のうち主に儒教と道教について書かれた一冊。中国思想の発展の歴史をたどることによって解説する本ではない。中国思想に見られる5つの特質を取り上げることによって、中国思想の独自性を明らかにしようとしている。この5つの特質とは、合理主義、 対待、中庸、死生一如、天人合一。

おそらく一般向け講演をもとにして書かれた本のようで、とても平易で分かりやすい。歴史的経緯は追わないものの、中国思想の特徴がうまく明らかになっている。それぞれの章はもともと別々のものだったようで、それぞれの扱い方についてはやや統一感を欠いている。 何よりも本書の特徴は、ただ中国思想の歴史的意義を明らかにするのではなくて、それを我々が現代にどう活かしていけるかを考えようとしていることだろう(p.22)。基本的には西洋の思想、あるいは科学的合理主義に支配されている現代の世界において、中国思想は何をもたらすことができるのか。著者のやりたいことはここにあるが、それはともするとややオルタナティブ思想に陥っているようにも見える。

現在の世界に活かすことのできる中国思想の特質とは、著者の見るところ、儒教的合理主義と中庸主義である(p.24-30)。合理主義と言っても、非合理的なもの(非科学的なもの)を含むすべての物事を合理的に判断していこうという態度ではない。それはむしろ西洋的な合理主義として位置づけられている。儒教的合理主義は、非合理的なもの、孔子の言う「鬼神」を端的に否定するのでなく敬して遠ざける。非合理なものについてはあいまいな態度を取る。無知の知、すなわち知らないものは知らないとし、自分の知と不知を区別できることこそ儒教の合理主義だ(p.73-91)。

このような儒教的合理主義態度は、おそらく中国思想のもっともも根本的な特質、すなわち現実主義に立脚している。 中国の人々にとっては、目で見たり耳で聞いたりして感覚でとらえることのできるこの現実世界が何よりも尊重された(p.53f)。この世界と断絶した神の世界、死後の世界は重視されず、いまこの世の中においてどのように生きていくべきかが、いつも問題とされてきた。
一番大切なのは現実に生きているわれわれ人間です。中国思想はそこをおさえていると言ってよいでしょう。人生問題を中心にして、具体的現実を離れない形で人間がいかに生きるべきかを問いつづけてきたのです。(p.58)


このような現実主義的傾向は儒教に限ったものではない。一見すると道教は生の問題を離れて議論してるように見える。しかし著者によれば、儒家は死の問題を生の問題に含め、生きている間の人生問題だけを説いている。一方、荘子は万物斉同から、生死を一連として死に捕らわれないことを説く。どちらも、死を恐れることからの解放をうたっていることには変わりないのだ(p.179)。ちなみに、この現実主義は仏教の空の思想や出家はなじまず、仏教受容において大きな影響を与えている(p.44-48)。中国での悉有仏性論の成立には儒教の性善説と密接な関係があって、楽天的な人間尊重の立場で共通するものがある(p.36f)。

このような儒教的合理主義の感覚は現代の我々にも生きている。例えば、人事を尽くして天命を待つといった言い方にそれは現れている。こうした、不確定な未来を天命と考えるのは現代の感覚にも通じるものがある。ここに天人合一の思想がある。儒家の言う天は倫理的法則性。道家の言う天は自然の存在の理法。この二つの違う「天」の概念は、秦の始皇帝の前後に新しい儒家が復興を図って道家の天を取り入れるにあたり一つとなる。漢の時代の董仲舒において天人合一は正統とされ、誠の概念に発展していった(p.206-213)。

こうした儒教的合理主義は、明らかに西洋的な合理主義を補完するものとして位置づけられることになる(p.91)。天人合一の思想も、人間の行き過ぎを制御するものとされる(p.224-228)。環境問題や、遺伝子操作の問題に直結している。孔子において知は仁を達成するための前提手段であり、仁よりも知が優先されることはない(p.68-73)。知の理性的働きはおのずから制限される。儒教的合理主義の「特色は、理性主義の道を直進することを避けて、人生の価値を実現するために、現実を観察し経験を考えあわせて、理性自体が自らを制御しながら、前進する」(p.88)ことにある。

もちろんこうした仁、あるべき人生といったものが、現代の世界において合意可能だとは容易に信じがたい。孔子の時代においては、周の時代という容易に参照可能な例があったからこそだろう。こうした参照点を持たない現代では難しく、儒教的合理主義からいったい何がもたらされるのかはよく分からない。反科学的蒙昧主義にならないといいが。

対待の思想は、物事の両面を複雑に見ようとする。単純にどちらかに割り振るのではなく、折り合いをつけて物事の両面を考える(p.93-97)。一見矛盾しているように見えるが、中国のように言語の通じる範囲が広く多様な意見が乱立するなかならではだろう。著者は毛沢東の著作も引きつつ、現代中国においてもこの考えが活きていると見る。毛沢東の著作『矛盾論』では対立するものの一方と他方が両方成立することが説かれている(p.114-117)。この話は、著者の中国での個人的体験も引かれ、印象論も多くてだいぶゆるい。

中庸の思想は、和であり、同ではない。対立意見を無きものにするのでなく、対立を認めたまま調和させること。日本は「和を以て貴しとなす」と言いながら、目指しているのは同である。同は全会一致であり、意見の対立を認めない。和は互いの意見が対立していることを認めつつ、調和を図る(p.150-155, 160-162)。中国政府の方針は絶対であり、地方はそれに調和するように進む。しかし地方では実情に合わせた二重行政が行われていたりする。こうしたところに和の一つの形を見ることができよう。あるいは、民主主義の理想は一つの和の形。著者が言うように、中庸の思想は古代ギリシャに通じるものがある。

岩波データサイエンス刊行委員会『岩波データサイエンス Vol. 4』


第4巻は地理空間情報処理。ここまでの巻はデータサイエンスのある手法について特集していた。この巻はある応用分野を扱っているものになっている。そのため以前とは趣が違う。 理論的な内容やトピックの位置付けを示す記事は少ない。ややバラバラな印象を受ける。

内容は地理空間情報の処理でよく用いられるQGISというオープンソースソフトウェアのチュートリアルから始まり、スーパーにおける顧客動線の研究、難病の分布を扱う空間疫学、Twitterやウェブ検索からのインフルエンザ流行の把握、都市における人の動きを示すパーソントリップデータ、そして位置情報のプライバシーといったところ。

地理情報処理のデータサイズはまだあまり知られていない分野なので、分野の啓蒙を図るのであれば、それぞれのトピックの位置付けや利用・研究の動向を少し扱うべきだろう。またそれまでの巻と比較すると、本巻は理論面が特に薄いように感じる。ベイズモデルでCAR事前分布を用いて空間で隣接する市町村の自殺率を推定したり(p.57-62)、消費者の心の中という不可視の要素を状態として購買プロセスを隠れマルコフ過程とした分析(p.73f)など、面白そうな試みはあるのに、あまり理論的には深堀されておらず少し残念な思い。人の行動をある程度グルーピングし、その頻度を確率としてマルコフ連鎖を作るといった、隠れマルコフ過程の匿名化処理への応用(p.139-145)などは、知らない人間には意外性があって面白かった。

アニータ・エルバース『ブロックバスター戦略』


商品ラインに均等にリソース分配し、利益を増やそうとして コスト削減に努めるよりも、ブロックバスターを狙って大きくつぎ込み、その他大勢につぎ込む費用を大幅に少なくすることが、ショービジネスの世界で常に成功を収める確実な方法なのである(p.5f)
ハーバードビジネススクールのメディア産業の経営戦略・マーケティング担当の教授による本。日本語版ではサンリオの取締役を務める人物が各章のまとめやコラムを書いている。ハーバードビジネススクールで使われるビジネスケースを元にして書いており、とても読みやすい本。取り扱われてる業界には、映画、音楽、出版、スポーツ。いわゆるショービジネスの世界。

本書でメディア産業で有効な戦略として掲げられているのが、タイトルにもなっているブロックバスター戦略。ブロックバスターとは映画産業でよく言われるメガヒット作のこと。著者の主張では、メディア産業では小さな投資を繰り返すのではなく、可能性のあるものに大きな投資をしてブロックバスターを見出すのが有効な戦略だ(p.25)。

ブロックバスターのようなメガヒット作を狙って大きな大きな投資をするのは、一見リスクが大きいように見える。しかし少額を数多くの対象にかけるほうが、実ははるかに大きなリスクを負うことになる(p.37)。なぜなら例えばワーナー・ブラザーズを例とした映画業界では、ブロックバスター戦略を避けていると、コンテンツ制作者、監督、役者などクリエイティブな仕事をしている人達から相手にされなくなってしまう。映画館などメディア流通市場での力も失ってしまう(p.49-58)。

ブロックバスター戦略がエンターテインメント業界で有効なのにはいくつかの理由がある。 例えば 商品の再生産や流通にかかるコストが少ないので、 大量に流通するほどコストは下がる(p.60)。また、「グローバル化が進行し、競争が激化する市場において、流行り廃りのサイクルがかつてないほど早まっている時代にあって、騒然とした膨大なメディアを通り抜けて大衆のもとに達するには、莫大な予算が必要になる」(p.266)。またエンターテインメント商品は事前にサービスを体験できないため、人々の間での評判や口コミが大きな力を持つ。すなわち社会的影響力が大衆文化の普及では強い力を持っている(p.98-102)。

こうして多額の資金を投入できるものが勝つ市場、つまり一人勝ち(winner-take-all)の市場がエンターテインメント業界だ。例えばスポーツ業界では一人の力あるプレイヤーがチームの評価の鍵を握る。こうしたプレイヤーは、チーム・製品のアイコンとして客寄せになる。そもそも消費者は目立つ人物以外の多くの人物を覚えていない。さらに、失敗したときに夢選手はいなかったからだという批判を回避する保険となってくれる(p.127-131)。

もしブロックバスター戦略が有効なら、少額の投資を他の商品にする必要はないのではないか。こうした商品はそもそもほとんど利益にも貢献していない。しかし少額の投資にも意味がある。それは冒険的な投資に対するテストケースとして使える。扱う商品が多いことにより、発注先や流通関係を維持できる。 多くの商品で固定費やインフラ費用を分担することによりコストを下げることができる(p.62-67)。

覇者の章ではブロックバスター戦略はエンターテインメント業界に限られない。共通の商品しか作らないアップルの小品種主義はまさにそうした例と言える。また下着の市場におけるヴィクトリアズ・シークレットもブロックバスター戦略の例として挙げられている (p.298-301)。

巨額の投資を必要とするブロックバスター戦略は一企業には荷が重すぎる。そこで、スーパースターを複数企業で利用してブロックバスターを作り出すアイデアが述べられている。ジェイZの自伝本における出版社とマイクロソフトの協調や、レディ・ガガを巡る複数企業の連携などが実例として挙げられる(p.251-267)。

容易に分かることだが、ブロックバスター戦略はいわゆるロングテールという考えに異議を唱えるものだ。著者はデータを示しながら、ロングテールが実際には成立していないことを示そうとしている。例えば iTunes の音楽配信において成立していない。テールの大多数の商品は、そもそもあまり売れなかったものでしかない。他の分野でも、エンターテイメント業界は逆に、以前にも増して一人勝ちの様相を呈している(p.219-224)。さらに、YouTubeと比較したときのHuluの成功は、インターネット上でもブロックバスター戦略が有効なことを示している(p.232-237, 244-246)。

ちなみに途中には話の筋が脇にそれているように感じる。ボカ・ジュニアーズなどの人材開発モデル(p.143-157)はどのような意味でブロックバスター戦略なのだろう。スポーツ業界におけるブロックバスター戦略としては、レアル・マドリードの話が長い。ところが評価されているのはマンチェスターユナイテッドのファーガソン監督だ。アンバランスな記述に見える(p.163-167)。さらに言えば、製品ライフサイクルやブランドマネジメントの考えを取り入れて、スーパースターの売り方を述べている第四章は、ブロックバスター戦略とは離れた話題に見える。

ロングテールは売上高が小さい商品でも、それぞれの買い手がいるという話であり、これは消費者視点の話。ところがブロックバスター戦略は完全に生産者側の理論であり、売上高ではなくて投下する資本の話。本書がロングテールを批判する時にはこのずれが気になる。また、投下資本量に利益がついてくるような印象を持ってしまった。リスク管理の話が少ないと感じる。

峰如之介『なぜ、伊右衛門は売れたのか。』


サントリーのメガヒット緑茶飲料である伊右衛門の誕生ストーリー。短い本であるし、記述はジャーナリスティックで簡潔。あまり商品開発の深いところは伝わってこないが、身近な商品の開発秘話が聞ける。

話題の中心となっているのはブランドマネージャーの沖本直人氏、商品開発の牧秀樹氏、デザイナーの水口洋二氏といったメンバー。彼らがどんな状況で、どんな想いで伊右衛門を作り出していったがか分かりやすく書かれている。例えば伊右衛門の開発プロジェクトは、緑茶飲料の開発プロジェクトが既に別にあったなかで急遽用意された。しかし定量的な3Cに基づくデータ分析に支えられた、熱意に基づいた事業部長向けプレゼンの様は圧倒的で、本書のハイライトの一つ(p.58-68)。このプレゼンの段階で、既に福寿園との連携まで掲げている。当の福寿園に提携交渉に行くのは、このプレゼンが終わって開発プロジェクトが承認されてからだ。ちなみに、最初の提携、および創業者名の「伊右衛門」を商品名とするには福寿園側に相当の議論や逡巡があったと思うが、福寿園側の話は少ない。おそらく取材対象でないのだろう。

伊右衛門プロジェクトは、前回の失敗からの再起をかけたプロジェクトだった。失敗したのはプーアール茶をメインにした「熟茶」というもので、たしかに聞いたことが無い商品。発想が完全にプロダクトアウトなのが目につく(p.157f)。しかしこの熟茶の開発からは、後に伊右衛門の開発で特徴となる無菌充填生産方式が生まれていて、これ以外にも失敗は生かされている(p.125f ,171-175)。

伊右衛門は100年続くブランドを目指していると言う。サントリーと言えば印象に訴えるインパクトある宣伝広告が特異だが、伊右衛門ではあえてインパクトを追わないCM作りをしている(p.200-202)。また本書の冒頭にある京都でのカフェ展開など、一過性の広告ではなく多様な商態を模索している(p.41-44)。商品パッケージでも、最初は老舗を感じさせる限りなく簡潔なデザインを採用した。普及してからはやや目立つように、ロゴや文字を追加するなどしている。これはユーザーとの距離感を微妙に調整するデザイン・チューニングだという(p.222-228)。