FC2ブログ

Entries

マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』


話題の一冊。ドイツの若手哲学者が書いたベストセラー。「新しい実在論der Neue Realismus」を標榜し、ポストモダン思想から哲学を進めようとしている。本自体はかなり平易に書かれていて、翻訳も柔らかく読みやすい。著者の見ている一連の問題系について知ることができる。存在論と認識論から始まり、宗教、科学、芸術と論は進んでいる。

世界は存在しないと主張する本書のタイトルを見て、世界は超越論的基底だからという結論だろうと思ったが、おおむねその通りだった。本書はまだ著者の基本的発想を展開したに過ぎない印象を持つ。ここには新たな概念の創造はあまりなく、独自の哲学が展開された感じはない。カントやハイデガーといったドイツ哲学を、ポストモダン後の状況に置き直したという感じ。

新しい実在論の主張と、世界は存在しないという主張は、さほど強く関連していないように見える。新しい実在論は、「それ自体として存在しているような世界をわたしたちは認識しているのだ」(p.13)ということを出発点とする。ただし存在者は必ずパースペクティヴを伴い、様々な現れ方をする。このパースペクティヴは視覚的なものだけでなく、他の存在者との関連や、概念的なつながりといった意味論的なものだ。存在者の現象に伴うパースペクティヴを、著者は意味の場(Sinnfeld)と呼ぶ。存在するとは意味の場に現象することである(p.105, 169, 174-176)。パースペクティヴ、意味の場は、存在者を認識する認識者の主観的なものではない。山について、ある場所にいれば誰にでも同じように見えるように、ある条件での現象する仕方は客観的なものだ。パースペクティヴは存在論的な事実である(p.253, 273)。

この新しい実在論の発想は、出発点としてとても豊かなものだろう。別に著者の専売特許になるような新しい発想という感じはせず、例えば20年前くらいに野矢茂樹が論じていることに近い。ただし、新たな実在論が抱えることになるだろう問題については、きちんと展開されてはいない。例えば、原理的に認識者が存在しえず、パースペクティヴを持ちえない存在者をどう扱うのか。量子力学における重ね合わせ状態や、ブラックホールの中の粒子などを、著者は「消失対象」として存在者として認めている(p.73)。また多くの名もない超越数も与えられる方法がなく、実無限個の実数を認めることはできないだろう。これらは存在者はSinnを伴うというフレーゲの発想をダメットが検証主義として発展させようとして苦労してきた点だ。本書にダメットへの言及はないが、彼が抱えた問題はそのまま新しい実在論に降りかかってくるように思える。

ただ著者における対象の与えられ方という概念は、かなり広い。想像や思考も一つの意味の場として認めているからだ。現実に存在しない対象も、想像や思考といった意味の場において存在を認められている。否定的な存在言明は、現実として存在しないと言っているのみ。想像や思考の中には存在すると言ってよい(p.128-133)。したがって「現在のフランス国王」も真正に対象である。でも「どんな思考にも与えられることのない対象」なんてのはどうするのか。こうした対象がいかに与えられるのかについては、さほど議論はない。

世界は存在しないという主張については、自分にはかなり隙がある議論であるように見える。まず、「世界」で著者が何を意味しているのかが、ざっと読んだだけだからか不明である。最初に出てくる説明は、「世界とは、我々を離れてそれ自体で成立していることがらの総体」(p.10)というもの。キーワードは「総体」(ドイツ語はGesamtheitか?)。世界とは成立している事柄の総体、という言い方は前期ヴィトゲンシュタインを連想させる。実際、著者はヴィトゲンシュタインの『論考』の世界は事実の総体だという箇所を引用する。ただ著者によれば、世界は事実の総体だけでなく、物、そして対象領域も含むという(p.52-57)。ここでいう対象領域とは、それぞれの物が必ずどこかに含まれるものだというが、本書ではそんなに展開されていない概念。

次に見えるのは、世界とはすべての領域の領域であるという規定(p.69)。物や事実はここでは抜けている。領域の領域とは何かについては、ざっと考えただけでも集合の包含関係、所属関係、メレオロジカル・サムが思い浮かぶ。著者はどうやらメレオロジカル・サムを考えているように見える。世界の存在を主張するのは一元論と位置づけており、その批判にメレオロジカル・サムの話が見える(p.79-91)。世界とはそこに属するもののすべての性質を備えた超対象であり、そんなものは存在しえないと。たしかにメレオロジカル・サムならそうなるだろうけど、世界がなぜすべての性質を備えなければならないのだろうか。超対象など、そんな矛盾したもの存在しようがないだろう。なぜ総体にそれに属するものと同じ性質を帰属させなければなならないのか。この議論が示しているのは、世界はメレオロジカル・サムではないというだけに思われる。(またこの議論に続くデカルト二元論批判はちょっと論が浅すぎる。なぜ実体が2個であって、22個でないのかと書かれている。二元論の基本発想は、規定を満たすものと満たさないものに分割することにある。デカルトの場合ならres extensiaとres non extensia。つまり真理値による分割が基本。res cogitansがres non extensiaなのかどうかはその次の議論だ。なぜ実体が22個でないのかという著者は、22値論理でも取るつもりなのだろうか)

しかし世界に関する上記の存在論的規定は、章が変わって破棄される。代わりに、「世界とは、すべての意味の場の意味の場、それ以外のいっさいの意味の場がそのなかに現象してくる意味の場である」(p.109)という意味論的あるいは認識論的規定が現れる。意味の場それ自体も対象として真偽を問うことができる。よって、この意味の場もそれが現象する何らかの別の意味の場、すなわち世界をもつ(p.116)。こうして世界は超越論的基底であるから、世界そのものが意味の場として現象することはない。世界は総体だから世界自体は世界の中には現れず、世界は存在するものの総体だから世界は存在しない(p.23)。これは存在者と存在は異なるというハイデガーの存在論的差異の議論だ。

けれども世界についてはもう一つ言及がある。それは宗教を論じるくだりで突然出てくる、世界とはすべてを取りまとめて組織化している原理のことという規定(p.239)。ここではもはや総体でもなく、原理である。この原理が宗教的には神と呼ばれる。創造主とかブラフマンとか朱子学の「理」とか。ここでの、無限のものを表象し、世界全体に意味を与えようとする点では科学的世界像も宗教的世界像も変わらないという捉え方は、とても共感できる(p.211-217)。

ともあれ、世界について、本書には下記の規定がみられる。
・それ自体で成立していることがらの総体
・物、事実、対象領域の総体
・対象領域の領域(メレオロジカル・サム)
・意味の場の総体
・すべてを取りまとめて組織化している原理
著者は何について存在しないと主張しているのだろうか。また世界が存在しないというとき、どうもただ単に存在者ではないというだけではなく、何らの意味でも妥当しないと著者は言いたい感じもする。

最後の章は芸術についてで、ここでは芸術は通常と違った対象の与え方、通常の意味の場から対象を移動させるものだと言う(p.246-251, 255-256)。フレーゲばかりが言及されているが、とてもハイデガー的な論点だと感じる。『芸術作品の起源』とか。本書はハイデガーについての言及は少ないが、全体的にその影響が濃厚である。意味の場とは存在了解と発想が近いし。実は本書の議論がハイデガーの問題圏(平たく言えばハイデガーの手のひらの上を)動いていたのだ、というのはエピローグで突如明らかにされている。
意味の場の存在論が、ハイデガーの有名な表現を借りて言えば「存在の意味」とは何かという問いにたいする、わたし自身の答えです。存在の意味、つまり「存在」という表現によって指し示されているものとは、意味それ自体にほかなりません。このことは、世界は存在しないということのうちに示されています。世界が存在しないことが、意味の炸裂を惹き起こすからです。いかなるものも、何らかの意味の場に現象するからこそ存在する。そのさい、すべてを包摂する意味の場が存在しえない以上、限りなく数多くの意味の場が存在するほかない、というわけです。それらの意味の場は、互いに連関をなして一個の全体を形づくったりはしません。もしそうなら、世界が存在することになってしまいます。(p.292f)
スポンサーサイト
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://exphenomenologist.blog100.fc2.com/tb.php/1004-bb022e56

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

プロフィール

坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。
しかし博士号は取らずPh.D. Candidateで進路変更。
哲学と特に関係なくIT業界に住んでいる。

別館:アマゾンのレビューページ

最新トラックバック

検索フォーム

QRコード

QRコード