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岩崎育夫『入門 東南アジア近現代史』


東南アジアの近現代を概観した良書。「多様性の中の統一」という、インドネシアの独立からの国是をキーワードとしている。東南アジアでは古来、一度も領域を統一した国家は生まれていない。かたやインドシナ半島の大陸国があり、かたや島嶼部からなる列島国家がある。言語も宗教も多様だが、特に近年はASEANという形で地域共同体を形成している。多様性のなかで東南アジアが模索する統一の形を分かりやすく提示している。

本書は近現代史なのでせいぜい19世紀以降の話が中心となる。東南アジアにあった土着国家を簡単にさらったあと、ヨーロッパによる植民地化、日本による占領統治を概観。そのあとの独立からがメインといえる。開発主義国家とそのあとの民主化の流れを追う。開発主義による経済開発はやや詳しく扱われる。最後にASEANの構想と現実について語られる。

東南アジアでは大陸部全域、島嶼部全域を支配下に入れた統一国家が一度も登場していないことは、東南アジアがそれぞれの地域に分節化されており、多様であることを反映している。ただ、それでも植民地化以前の土着国家には特徴があったという(p.42-45)。一つは「インド化した国」。イスラム伝来以前、東南アジア諸国はヒンドゥー教、仏教、インド的な王権概念、サンスクリット語などインド文化を多く受容している。二つには「マンダラ型国家」。それぞれの国の境界線は曖昧で、首都から離れるにしたがって支配力が弱まっていた。三つには「港市国家」。海路による東西貿易の中継貿易港、後背地で産出される産物の積出港として発展した。

ヨーロッパによる植民地化と一次産品開発としては、タイの位置づけと華人の活躍が興味深い。タイが植民地されなかった理由を著者は三つ捉えている(p.62-64)。第一に、タイが近代化改革を取ったこと。1868年に即位したチュラロンコン国王は、官僚制の導入や軍隊の創設などチャクリ改革を進めた。第二に、イギリスは西からフランスは東からそれぞれタイに迫ったが、 引き続いた争いを避けるために1896年にチャオプラヤ川流域を緩衝地帯とする宣言を行った。第三に決定的な理由として、ヨーロッパ諸国がタイの米貿易の参入権を獲得したこと。ヨーロッパ諸国はタイの米という最も欲しいものを獲得したので、 それ以上のコストをかけてまで植民地にする必要はなかったという。

また19世紀に東南アジアが植民地化されると、各地で大規模な一次産品開発が行われた。この開発の担い手として、中国とインドから出稼ぎ労働者が多数流入した。この出稼ぎ労働者の子孫は現地国籍を取得し、これが東南アジアをそれまでの単一民族型社会から多民族型社会へと転換させることになる。多民族型社会への転換のもう一つの理由として、ミャンマーなどでは民族分布を無視した植民地国家の領域の策定という理由もある(p.75-79)。

日本の統治についてはシンガポールの華僑虐殺、バタアン半島の死の行進、泰緬鉄道建設労働者の強制徴用を三大蛮行として挙げるも、大東亜会議を大東亜共栄圏に向けた実質のある会議として取り上げている(p.93-97)。ともあれ日本軍が東南アジアからヨーロッパ勢力を駆逐したことは確か。しかし日本軍が東南アジアを解放したというよりは、その後の日本の占領統治がヨーロッパ人以上の過酷だったので、東南アジアの人々の間に外国支配からの脱却、すなわち独立を渇望させた(p.100)。

第二次世界大戦後の独立にあたっては、多民族化した社会から国民統合をどう作り出すかが各国で課題となった。例えばマレーシアでは、イギリスの植民地国家を支える専門家を育成する教育が、民族は違っても同じマレーシア人であるという社会エリートの仲間意識を生み、一般の人々にも広まって多様な民族が一つにまとまる契機となった(p.113)。外国で学んだエリート中心の国づくりとしてはシンガポールも同様。

この国民統合の中では、排除される華人たちへの言及がある。インドネシアのスハルト時代、ベトナムのボートピープル、シンガポールのマレーシアからの追放がそうした事例にあたる(p.140-144)。1963年にマレーシアに加盟したシンガポールは、マレー人を華人よりも優遇するマレーシアの政策に反したため、2年後の1965年に独立したというよりもマレーシアのラーマン首相により追放されたと著者は見る(p.118)。

1965年にインドネシアで軍と共産党が対立し、陸軍が50万人弱の共産党員を殺害する(9月30日事件)。これによりスカルノ大統領が失脚しスハルトに権力が移行すると、政治基盤を強化して経済開発を政策の主軸に据える。この移行は周辺国に衝撃を与え、シンガポール、マレーシア、フィリピン、タイは1960年代から1990年代にかけて開発主義国家の時代となった(p.155f)。この経済開発においては、逆に華人起業家が利用されたことが面白い。歴史的、経済社会的に華人しか工業化に必要な資金の経験を持っていなかったため。政治家も庇護の見返りに政治献金を期待し、政治家と華人起業家の深い癒着があった(p.207)。

開発主義の独裁からの民主化は、1986年フィリピンの黄色い革命を契機とされている。東南アジアの民主化を求める流が各国で扱われている。タイの血の民主化事件(1992年)、ミャンマーでのアウンサンスーチーの軟禁開始(1990年)など。中国の天安門事件もこの流れに位置づけられる。著者はハンチントンの民主化の第三の波、経済発展による中間層の登場という二つの側面から説明している(p.167-171)。

最後はASEANの歩みをたどる。ASEANは1967年の発足当時は、ベトナム戦争を契機とした反共自由主義国の連盟だった。しかし1990年代後半にベトナム、カンボジア、ラオスが加盟する。これらの国にとってはソ連が崩壊したあと、資本主義型開発に必要な資金、技術、ノウハウを他に得る手段がないことが理由となった。加盟国側は地域安定と安全保障の確保を狙った(p.230-233)。かくしてASEANは地域共同体の形をとっていく。ただし資本主義国と共産主義国、民主化の度合いなど多様性が大きいため、内政不干渉と全会一致方式を基軸に置いた。この方式は、ミャンマーでの少数民族の迫害にASEANとして対処できないこと、中国の影響が大きいカンボジアの反対で南沙諸島への中国侵攻に対処できないなどの難点も指摘される。ただ、多様性の中の統一として、加盟国が合意しまとまれる範囲で協調・行動していく原理として著者は評価もしている。ASEANの組織と安定を維持する上で有効な方式、多様性の中で地域機構を運営するための知恵であると(p.240-244)。
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