FC2ブログ

Entries

イアン・ハッキング『数学はなぜ哲学の問題になるのか』


哲学者たちは、数学について少しでも考えたことのある他の人々と同じように、「数学」を当たり前のものとして受け取る傾向がある。われわれは、ある問題、予想、事実、証明のアイディア、一片の推論、定義といったもの、あるいはある専門分野そのものをまったく無造作に数学的なものとして認識するが、それがなぜなのかを反省することはめったにない。[...]だが、現実の数学者たちが取り組んできたこれほど多くの異なる話題が即座に「数学」として認識されるのはなぜなのかという素朴な問いを、われわれは遠ざけてきたのではないか。(p.52)

分量的にも内容的にもヘビーな一冊。ハッキングがそのキャリアを概括するように数学の哲学について書いている。アプローチは著者独特のもの。普通の分析哲学的な議論を期待して読むと、とりとめもない議論をやっているように見える。著者が論じるのは、ある論点が成立している、あるいは成立してきた状況であって、論点そのものを解決しようとしているのではない。なので読み方を間違えると、回りくどい議論をしたのに何も主張していないという思いを描くことになる。

分析哲学における数学の哲学といえば、数学的対象の存在論的性質を巡るベナセラフ問題が思い浮かぶ。けれども著者は、ベナセラフ問題にはかなり冷淡である。著者が書くには、それは現場の数学者たちにとってはほとんど関心のないもの。どのような合意が形成されようと、それは数学者の活動に対して、大きな違いを生み出すことはないから(p.284f, 303-305)。論じるべきは、こうした哲学的問題として孤立したものではなくて、実際の数学的活動の中にあるものだ。ちなみにベナセラフ問題については、標準的な表示意味論が問題だと著者は考えている。唯名論的傾向を持つ哲学者たちは、常に標準的な表示意味論を当然なものとして認めているが、これは必ずしも数学者の態度ではない。反プラトニズム的な数学者は、数学的対象の存在を肯定も否定もしない。そもそもそのような主張に意味があると考えていない(p.276-278, 301-303)。われわれは数を使い、研究するが、抽象的な対象を必要とするわけではない。文を額面的にとらえて表示を取るのではなく、それがいかに使われるかを問うこと(p.327)。

こうしてプラトニズムの問題について言えば、著者が論じるのは哲学者ではなくて数学者だ。研究すべき対象がそこに独立してあるという素朴な感覚を語るコンヌと、数学に必要なのは証明であって、対象の存在論的性質の議論は数学に必要ないとする形式主義者ガワーズを対比させる。

さてプラトニズムの問題は最後の論点であって、本書はそこまで証明と応用という二つの論点を巡る。著者はこの二つを巡る数学の性質こそ、数学の哲学を歴史上、何度も生み出してきたものと見る。数学の哲学が時代を超えて生まれてくるのは、証明の結果から与えられる命題の必然性の感じと、数学の経験への応用可能性による。前者はプラトン、後者はカントに代表される問題。これらは必然性とアプリオリの概念にそれぞれ帰着し、ラッセルやクワインを経て回答を与えられている(p.145f)。

著者は証明と応用について大きく章を分けながら、歴史上の論点を洗っていく。そこでは、証明と応用の捉え方が現在に至るまでいかに変化してきたかを扱う。そして著者が論じるのは、こうした歴史が他でもありえたものであって、現在のわれわれがもつ証明と応用の概念が歴史的に偶然的なものということ。

特に証明についてはまとまりがよい議論。数学の証明は見渡しうるものでなければならないとするデカルト的な見解と、各ステップが合法的であれば良いというライプニッツ的な見解を対比する。証明についての論争は、多くこの二つの見解の差から生まれてくる。デカルト的見解をヴィトゲンシュタインに関連付けた後で、現代のデカルト的考えをグロタンディークに、ライプニッツをヴォエヴォドスキーに代表させるという論じ方は、とても明確(p.26-38)。人によってはあまりに単純な図式に見えるかもしれない。

証明についての概念は、古代ギリシャでまとまってきたと論じる。一方、応用についてはカントなど啓蒙時代が中心となる(p.105f)。論証的証明が古代ギリシャで受け入れられたのには、ブラトンの影響が大きいと著者は見る。プラトンは他のソフィストたちの弁論術に対して、自分独自の方法として数学的証明に範を取った。これが数学的証明が確実性をもっとももたらすものとして捉えられる先鞭をなす(p.169-172)。

応用については、証明概念よりも偶然性が強い。著者は、純粋数学と応用数学の区別は全くの偶然によると論じる。歴史が違っていれば、我々の概念的秩序も違っていただろう(p.186-189)。数学の応用を著者は7つのタイプに分ける。数学の応用の議論はこれらをきちんと区別しないと、明確な議論にならない。アプリ(応用)0、数学に応用された数学。別の数学の分野への応用で、デカルトの解析的幾何学とか、ラングランズ・プログラムとか。アプリ1、ピタゴラスの夢。宇宙の本質は数学的であり、数学が宇宙を明らかにするという考え。自然という書物は数学で書かれている(ガリレオ)、ディラック、テグマークの数学的宇宙仮設。アプリ2、最も一般的な種類の理論物理学。大統一理論に至るような理論物理学における数学の使用。アプリ3、「関心をもたれない」科学研究における数学的モデリング。現実世界の数学的モデルと、計算機によるシミュレーション。アプリ4、使命指向型の数学。ビジネスにおける利益を生む数学。SIAM(応用数理学会)の定義。ファイナンス理論とヘッジファンドなど。アプリ5、ごくありふれた応用。日常的な数学の使用。会計士、商人、大工、建築業者、農家、法律家。アプリ6、意図されない使用。教育において社会階層を形成する要素としての数学。エリートを選別するための数学的能力。あるいは単なる遊び、レクリエーションとしての数学。アプリ7、風変わりな応用。ウィトゲンシュタインの壁紙のパターンを生み出す微積計算の例。美術への応用とかか。そして応用についてのそれぞれの哲学的議論は、どのアプリを巡っているのかを明確にする必要がある(p.211-219)。

現在の分析哲学の流れにある数学の哲学がもつ純粋数学への態度は、20世紀初頭のケンブリッジ大学トリニティカレッジの3人、ハーディー、ホワイトヘッド、ラッセルによる純粋数学への賛美に強く影響を受けていることへの注意(p.207f)。この影響を相対化するためか、剛性、航空機の翼、物理学における幾何学を例に取って、応用数学の具体的議論を行っている。これは数学が応用される現場を踏まえた濃密な議論。そこで見えるのは、純粋数学がまったく独立して研究されるようなものではなく、純粋数学と応用例の間で繰り返される往復運動。応用のなかで見つかってくる純粋数学的問題がいかに豊富かが論じられる(p.225)。

哲学者の数学の哲学というより、数学者の数学の哲学(というより後者以外にそもそも数学の哲学がありうるのか)を追った濃密な一冊。現場の数学の議論までしっかり追っていく力量は素晴らしく、少しまとまりの悪さを感じるものの、数学の哲学の議論はかくあるべしという印象。
スポンサーサイト
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://exphenomenologist.blog100.fc2.com/tb.php/1027-2933c238

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する