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ロラン・バルト『明るい部屋』

明るい部屋―写真についての覚書明るい部屋―写真についての覚書
(1997/06)
ロラン バルト

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期待外れ。感想を辛辣に言うと「枯れた老作家の自己満足的言辞」。過去の威光から、人々は老バルトのこの言に耳を傾けるだろう。だが個人的な趣味や感覚が、物事の普遍性を捉えるなんて思うなかれ。これはエッセイだって?だったら「現象学」などという言葉を一文字たりとも使うなかれ。

「写真の現象学」というふれこみに引かれて読んだ。だがこれが現象学か。ノエマという文字が出てくるだけではないか。個人的な趣味について述べているだけではないか(p.47)。形相的還元なんてまるきり無視である。本当に現象学について知っているのか?

私見だが、「写真の現象学」は本来、極めて困難な試みである。現象学が主観に与えられる体験から、現象の意味を構成するものであれば。写真は、主観の意味付与とは違う経路で、既に世界の意味構成が行われてしまっていることを示している。写真が過去の世界の姿を提示するのは、まさにそれが主観の意味構成を経ていないからこそである。写真に証拠能力はあれど、絵画には無い(写真のもつ世界の意味構成と、写真を見るときの現象の意味構成を混同しないこと)。だから、写真は恐ろしい。それは、現象をあったところから引きはがす。現象は幽霊になる。そしてどこへでも遊離していく。バルトが「プンクトゥム」と呼ぶのは、写真が異なる文脈に置かれることによる。バルトが考えるのとは違い、それは写真が持っている何かではなく、見る側が持つものだ。しかしもっと恐ろしいのは、写真はそれら幽霊こそが実在であると主張することである。

バルトは確かにこの写真の恐ろしさを捉えている。つまり、写真は暴力的であり(p.113)、狂気である(p.140)。だが、その狂気こそが世界の姿だという本当の恐ろしさは、この本には無い。それはむしろ、メルロ=ポンティが『眼と精神』で感じたものだ。メルロ=ポンティはその本で、写真の狂気に気付いてしまった。だから絵画と比較し、絵画をそれこそ暴力的に救い出すしかなかった。そこにあるのは、写真が現象学を瓦解させることへの予感と恐怖である。視線の権利は奪われてしまったのだ。

これならまだ、写真はバークリー的な神の視線に留まる。バルトによれば写真の意味には「かつてそこにあった」ことが属する(p.93)。そこにいれば、その情景があったということだ。何より、カメラと写真家がその視線の持ち主である。だが、写真はそれに留まらない。ハイスピードカメラの写真が映し出すのは、我々が体験することのない、世界の微細構造である。この視線の持ち主は、もはや我々ではない。我々はこの光景を体験することはない。にもかかわらず、世界はいまも、常に既に、こうして成り立っていることを写真は主張するのだ。バルトはハイスピードカメラについて述べるが、無視している(p.47)。「好きではない」からだと。「好きではない」ならばそれを考察から外し、そして外した結果を写真の「ノエマ」「本質」と称する。なんてお気楽な論じ方だろう!

かくしてバルトの論じる写真はすべて人物写真である。凄まじい偏りようだ。彼は、我々の視点の延長線上でしか写真を考えていない。そこでそのとき写真家が体験した現象のみを対象にしている。後は、バルトの趣味に従って、写真の「本質」から除外されているのだ。例えば。「写真は無言でなければならない(騒々しい写真があるが、私は好きではない)。」(p.67)バルトが好きかどうかなんて関係ない。私は憤りを感じる。

さらに言おう。写真には、いま述べたことすべてを無効にする機能がある。つまりバルトが述べた「それはかつてあった」をすべて台無しにする機能が。それは、いみじくもバルトが完全に考察から排除した、「暗い部屋=暗室」(p.131)である。写真は世界の真理を主張する(まさに「真を写す」)と同時に、作為の対象となる。暗室の作業は、写真のトリックを成立させる。写真がただの真理の主張であれば、それはただの記録だ。だが、写真は芸術となる。そこには、恣意が入る。バルトにとってはこれはトリックであり、嘘である(p.106)。バルトにとっては撮影者、撮られる者、そして写真を見る人という三つしかない(p.16)。ここには暗室がない。

明るい部屋にとっては、暗室はあっては困るのだ。だがバルトが困ろうが困らなかろうが、バルト個人が好きだろうが嫌いだろうが、それはある。真理の主張と、作為の対象。この二つは本来は両立しない。この二つの機能を持つのが写真の不思議さであり、恐ろしさである。バルトにその感覚はない。彼は、自分の見たいものだけを見て、それがすべてだと主張する。自分の興味のないものは写真の本質に属さない、と言う。それは傲慢だ。私は怒りを感じる。

この話は、現象学的発想をしない人にはなんのことやら、だろう。写真の真理要求は、実に当たり前のことだ。だがここには、重要なせめぎ合いがあるーー少なくとも私はそう思う。だが、バルトは何も気付いていないようだ。
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