Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://exphenomenologist.blog100.fc2.com/tb.php/15-afbaed6d

トラックバック

納富信留『ソフィストとは誰か?』

ソフィストとは誰か?ソフィストとは誰か?
(2006/09)
納富 信留

商品詳細を見る



プラトン、アリストテレスによって哲学が成立するとともに、忘却の闇に沈んでいったソフィストと呼ばれる人たちについて。知識の間隙を埋める、貴重な研究だ。
哲学という営みの独立した成立に抵抗し、哲学者/ソフィストという区別そのものを批判する営みとしてソフィストを捉える。とてもスリリング。
ソフィストの哲学批判は決して止んだわけではない。むしろ、哲学が意義を失いかけている現代においてこそ、復活する問いだろう。
ゴルギアスについての文献学的な精緻な読みが圧倒的である。やはり納富さんの能力は驚嘆すべきものだ。


amazonに読書記投稿。だが、NGワードに引っかかったらしく掲載されない。
引っかかったのは「小手先だけの言い回しを駆使して、強弁を立てる人たち」「相手を騙すのである」の二カ所。小手先、強弁、騙すがNGワードだろう。
-----------------------------------------------------
本書は古代ギリシャで活躍した、「ソフィスト」と呼ばれる人たちを巡った本だ。時代は前5世紀頃。ソフィストはギリシャ市民に華やかな言論を演じ、人々に新たな思想と、言論の技術を授けた。ソフィストとは弁論術と思想の教授によって生計を立てていた人たちである。
ところがソフィストは、それ以降の時代において忘却されていく。いまではソフィストといえば、小手先だけの言い回しを駆使して、強弁を立てる人たちのように思われている。話はうまいが中身は無い、といった風である。ソフィストと呼べるような人たちは、著者が言うように現在でも存在する。例えば政治家、TVのコメンテーター、アメリカの法廷弁護人などである。しかしソフィストは古代ギリシャであれほど活躍したにもかかわらず、それ以降の時代では忘れ去られ、悪評を与えられてきたのである。

ソフィストが忘却された原因とはなにか。それはなによりも、「哲学」の成立である。プラトンはソフィストと対決し、ソフィストとはっきりと区別される「哲学者」の存在を主張したのである。特に、ソフィストであるとして処刑されたソクラテスを救い出そうとした。歴史はプラトンの勝利に終わり、ソフィストは忘却されるに至った。

本書はソフィストとされる人たちから、ゴルギアス、アルキダマスという二人を選ぶ。この二人のテキストの精緻な読解を通して、ソフィストの特徴を明らかにしていくのである。この議論は驚異的なものだ。文献学者たる著者の力の見せ所である。ゴルギアス『ヘレネ頌』の読解では、ゴルギアスの議論がその議論自体の責任を回避することが語られる。ヘレネに責任は無いことを論証することによって、その論証自体の責任も無いことを示す。ソフィストが何よりも演示、パフォーマンスの人たちであったことを明らかにする読解である。また、ゴルギアス『ないについて』の意欲的な読解にも注目すべきだ。ここではこのテキスト全体を、哲学のパロディ、哲学を批判するパフォーマンスと読み解く。これは普通の哲学研究者には不可能な読みだろう。読みの正否はともかく、注目すべき試みである。

こうしてソフィストは、哲学をパロディし、哲学者を笑い飛ばす。哲学だって、真理というお題目でもって相手に自分の意見を押しつけようとする、パフォーマンスの一種だろう。ソフィストは議論の巧妙さによって、哲学は真理によって、相手を騙すのである。ソフィストからすれば、誠実な顔して象牙の塔に籠もる現代の「哲学者=大学教授」は、まさに笑いの対象である。あいつら、何をお高く止まってるんだ・・・。だとすると、哲学者がソフィストに対してできることは?ここが本書のクライマックスだ。

「哲学の言論を笑いによって打ち倒すソフィスト術を、「不健全」として頭ごなしに否定するだけでは、もはや済まされない。哲学は、ソフィストの挑戦を避ける訳にはいかないのである。また、哲学の側が「笑い」を逆用することで、ソフィストを退けることも許されない。ソフィストの議論に、同じ土俵で、同種の議論で対応すれば、まさに自らがソフィストとなってしまう。/哲学にできることは、おそらく、ソフィストの「笑い」が持つ魅力や魔力、そしてそれが隠蔽する力さえも冷静に分析し、それに対処することであろう。そのために哲学は、まず、自らの内なる対立、混乱、矛盾に向き合い、それらと対決することが必要とする。哲学の言論とは何か、それが追求する「真理」とはいったい何なのかを、改めて根元から問うことが強いられる。」(p.244)


本書自体が、ソフィストの議論についてのこの「冷静な分析」なのである。つまり、ソフィストに対する哲学者のパフォーマンスだ。ソフィスト忘却の状況はいまでも変わっていない。ソフィスト本人の文献は歴史のなかで散逸し、復元すら難しい。またそれゆえ、研究も少ない。いまの日本でソフィストについてまともに語る本は、本書だけとも言える。極めて貴重な研究成果である。
スポンサーサイト
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://exphenomenologist.blog100.fc2.com/tb.php/15-afbaed6d

トラックバック

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。