Entries

竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折』

日本の近代 12 学歴貴族の栄光と挫折日本の近代 12 学歴貴族の栄光と挫折
(1999/04)
竹内 洋伊藤 隆

商品詳細を見る


相当に面白い。文句なしに素晴らしい本だ。印象的なエピソードを豊富に交えながら、そこに生きた人々の文化を鮮やかに描いていく。かといって印象論に流されるのを警戒する。必要なところは社会統計データで論拠を示し、分析していく。付録で付いてる月報で猪瀬直樹氏と対談して、こう語っている。「いつも学生たちに猪瀬さんの本を読んで技法を学びなさいといっているんです。アカデミズムにはもっとジャーナリステイックなセンスが必要だし、ジャーナリズムはもっとアカデミックな厳密に調べる方法論を採り入れてほしい」。まさにそういう本だ。

内容は、明治~昭和に至る、旧制高校の文化について。特に、一高→東京帝国大学の流れ。このラインで高度な教育を受けた人々は、官吏などで近代日本を形作った。単に東京帝国大学卒が重要なのではなく、それが一高から(あるいは他の旧制高校から)のラインであることが意味をなす。他は傍流だ。一高の文化がどんなもので、いかに形成されたか。基本的に「体育会系」だった一高の文化に、いかに教養主義が入ってくるか。そして教養主義は戦時期体制で解体される。戦後に復活し、大学闘争で華々しく散る。

昭和になって軍部が台頭する。この流れを、官僚エリートなどの非軍事エリートのハビトゥスと、軍人エリートのハビトゥスの対立として、つまり文と武の対立として読む視点(p.275)も面白い。また、教養に正統性を置く武士型組織としての官僚組織と、どれだけ長くその組織に属し、下積みをやってきたかに正統性を置く商家型組織としての中小企業、という対比(p.283)も参考になる。

近代日本のエリート層がいかに形成されたのか。この本は多くの人が読むべきだろう。小説のように読むこともできる。エピソードを読みつなぐだけでも楽しいだろう。確かに、教養を身にまとい、傍流を馬鹿にする自覚的エリートは鼻につく。だが、周りがみんな東大に行く環境に育ち、自分は普通だ、と思いこんでいる無自覚的エリート(有名私立→東大→一流企業というコース)はもっと頭に来る。この本を読んで自分がどんな歴史の上にいるのかを一番知るべきなのは、そういう人間たちだ。


amazonに読書記掲載。
--------------------------------------------------
旧制一高の文化を中心に、明治~昭和期の学歴エリートを描いたもの。実に鮮やかな名著だ。豊富なエピソードが歴史的情景を明快に描き出す。だが単にエピソードを援用した印象論に終わることはない。各種の社会統計データを論拠にし、きちんと議論が展開されている。エピソードと統計データの分析、この二つがバランス良く組み合わされている。ただし、大学闘争のあたりはややエピソードに寄りかかりすぎという印象も受ける。

東京大学は1877年創立。だが創立時の東京大学は、文部省所管の一学校に過ぎない。当時は各省にそれぞれの人材育成学校があったから、大した権威もない一学校である(p.61f.)。この東京大学は、1896年に東京帝国大学となり国家の人材育成を一手に担う。そして、一高から八高までの旧制高校(ナンバースクール)は、東京帝国大学を始めとする帝国大学の威を借りる形で成立していく。それだけでなく、旧制高校→帝国大学という流れがまさに「正統な」ものとして確立される。この流れを経た者だけが本当の学歴エリートとなっていくのだ(p.77f)。

貴族文化の再生産の場だったイギリスのパブリック・スクールとは違い、日本の旧制高校はそれ自体が初めて文化階層を形成した。戦時期にこれは崩壊するが、旧制高校は社会的流動性を高めたというよりは、文化階層の再生産の方向に向かっていたことに注意すべきである(p.185)。士族の出身が多かった旧制高校、特に一高の文化は、良く言えば質実剛健。悪く言えば粗野で乱暴。夜中に突然大騒ぎして、他の部屋に乱入して荒らしまくる「ストーム」。トイレが一階にしかなかったので、上の階の学生は窓から放尿した(「寮雨」)。こんな文化の中に、西洋の教養を身につける個人主義的文化がやがて入り込む。この二つの文化のぶつかりは、魚住景雄という学生と、新渡戸稲造校長の二人のエピソードとして描かれる。この著者の描き方は感動的ですらある。必読である。

こうして形成された学歴エリートは、やがて衰退を迎える。それは、大学生が急増し、学歴エリートが増えたこと。学歴ある者の反対項としての農村型社会の崩壊、という二つの要因にある。そして最終的に、学歴エリート・旧制高校の文化は大学闘争で終焉を迎える。大学闘争とは何よりも、旧来の学歴エリートに憧れながら、それを支える社会構造が崩壊したためにすでに不可能になってしまったという焦燥、妬み、憧れが生み出したものだ、という著者の読解は的を射ている(p.319)。注目すべきは、この傾向は戦前からあったこと。つまり、戦時体制でいったんこの教養主義は崩壊し、戦後はマルクス主義の装いで再び復活するが、本来はもう終わっていたものなのだ(p.330)。

以上ではとても語れないほどエピソードと情報に溢れた鮮やかな一冊である。エピソードだけを読みつないで、小説のようにも読める。近代日本を支えた人物たちと、彼らを生み出した教育システムが何だったのかが印象的に分かる。大学闘争の学生たちが戦ったものの正体がいったい何なのか明快に分かる。だが一番この本を読むべきなのは、いまの(自分がエリートであることすら無自覚な)学歴エリートたちだろう。
スポンサーサイト
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://exphenomenologist.blog100.fc2.com/tb.php/171-6ce26dd9

トラックバック