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マーリーン・ズック『性淘汰』

性淘汰―ヒトは動物の性から何を学べるのか性淘汰―ヒトは動物の性から何を学べるのか
(2008/10)
マーリーン ズック

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amazonに読書記掲載。(NGワード:売春、オーガズム)

読書記に書かなかった論点を二つ。
著者は、エコフェミニズムの主張に対して率直な科学者としての見解を述べている。エコフェミニズムによれば、科学革命が自然の脱魔術化をもたらし、生き生きした自然を機械的な受動的なものに置き換えた。デカルトやニュートン力学の機械論的見方は、自然の死を導いた。だがこの態度は奇妙だ。なぜ綿密な観察によって自然の振る舞いを問うことが、自然の活気を奪うことになるのか。自然について知ってしまうと、自然への賞賛を減少させることになるのか。自分について言えばそれは逆である。(p.77)ここから、後期ハイデガーとエコフェミニズムの近さを見ることができる。だが、科学と技術は違う。批判対象は技術なのであって、科学ではない。

形質が遺伝か環境かについての、卓抜とした比喩があった。ある形質が遺伝によるものか環境によるものかという論争の不毛。ヴァイオリン・ソナタはヴァイオリンから生まれるのか、演奏者から生まれるのか。どちらでもなくてその二つの部分から切り離すことはできない。遺伝/環境の違いが意味を持つのは、複数の形質の違いが問題になるとき。ヴァイオリン・ソナタの二つの演奏が異なれば、それはヴァイオリンが異なるせいか、演奏者が異なるせいかという問いが意味をなす。(p.87ff)


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社会生物学や行動生態学において、ジェンダーバイアスがどんな役割を果たしているかと分析、指摘した本。性淘汰の理論を解説した本ではないので注意。

「動物たちにおいて雄と雌の関係はしかじかである。したがって、人間においてもそのようにあるのが本来の姿であり、そうあるべきだ」という意見はよくある。だが、著者の主張ではこれには3つの問題がある。(1)動物たちの事例を研究する際には、そもそもジェンダーバイアスがかかった状態で見られている。雄の事例を典型例として取り上げたり、自分の主張に不利なデータを無視したり。(2)取り上げられる事例はたいがい、霊長類のものであって、例えば鳥や昆虫における多様な性の関わりを無視している。これは人間に近いものを優位に考える「自然の階梯」によるバイアスだ。(3)自然がそうであるからと言って、そう行動しなければならないわけではない。これは倫理哲学で有名な「自然主義的誤謬naturalistic fallacy」である。

著者はフェミニストでもあり研究者でもある。その観点から様々な研究上の歪みを指摘する。例えば、ある生物種を研究するのにたいてい雄がサンプルとして選ばれること。「雌を処女か売春婦のどちらかとしてしか見ない」(p.125)態度。雌は受動的で雄に交尾を強制されるものだという考え(p.209f)、等々。これらが生物学上の豊富な事例を用いて指摘されていく。雄と雌の関係に関する、様々な生物の多様な姿をかいま見られるのは本書の大きな利点である。スズメバチでの雌の壮絶な殺し合い(p.69)、ハゴロモガラスのつがい外交尾(p.111)、ボノボの頻繁な性交渉(p.192)、雌が交尾のリードを取るヨザル(p.209)、等々。

確かに、著者の指摘は鋭い。客観的で公平に見える科学研究におけるジェンダーバイアスは見えにくい。それを明らかにする手法は、時には強引な言いがかりにも見えるが、説得力のあるものだ。例えばハゴロモガラスのつがい外交尾においては、それが「乱婚」だとして雌が浮気していると非難されていた。雄の性的不節制は非難されていないし、そもそも婚姻に関するルールのない鳥たちで浮気という概念が成立しようがない(p.117)。また、一個体の雌に複数の雄が交尾する場合、議論はいつも雄の精子の間の競争として語られてきた。だがここでは雌は単に精子競争の舞台としてしか見られていない。実際、複数の雄との交尾を求めるのは雌の方であることもあるし、昆虫には特に雄の精子を貯蔵しておく貯精嚢を持つ。前の雄のほうが良ければそちらの精子を採用する(p.138f,241)。さらに、女性のオーガズムは男性に働いた淘汰の副産物だと考えるグールドの批判にも及ぶ(p.232)。

とはいえ、フェミニスト的主張に生物学的根拠を与えようとするのではない。例えば「母なる自然」という像を描くエコフェミニズムに対する批判も鋭い(p.69)。著者の主張は、どちらにせよ「科学をイデオロギーの道具すなわち武器と見なすことは何の役にも立たない」(p.263)ことである。自然そのものは善でも悪でもない。自然には「頭がない」(p.32)。「政治的、社会的にどのような立場に立つにせよ、まず何よりも動物を私たちの倫理的規範の指針にすべきでない」(p.163)のである。それは、そのようなバイアスが興味深い生物たちの行動を見えなくしてしまうからだ(p.73)。また、それがもちろん女性たちを抑圧するからでもある(p.327)。フェミニズムは科学におけるジェンダーバイアスを指摘するに役立つ。逆に科学も豊富なデータを提供することにより、フェミニズムの行き過ぎを抑える。ここには本来、お互いに利益となる関係があるはずなのだ。

本書は、様々な行動生態学上のデータが読める、とても興味深い本である。動物の性がいかに多様であるか、かいま見える。また、研究におけるジェンダーバイアスの指摘も、やや弱い論点や何度も繰り返されて退屈なところもあるが、基本的には誰もが反省しなければならない論点である。ただ、「自然の階梯」というバイアスの指摘には疑問が残る。確かに人間に(進化上、形態上)「近い」霊長類を好み、他の生命の価値を低いものと考える傾向は指摘されるべきだ(クジラは「賢い動物」だから保護されるべきだとする反捕鯨団体の主張など、まさに)。しかし研究上、霊長類が重視されるのはバイアスではない。人間の脳の働きを知ろうとして、昆虫の脳よりサルの脳を重視するのはバイアスとは言えないのではないだろうか?
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