Entries

芦部信喜『憲法』

憲法憲法
(1993/02)
芦部 信喜

商品詳細を見る


日本国憲法を概説したもの。適宜、他国の憲法や大日本帝国憲法にも触れる。憲法に記載された様々な権利に関して、それを巡って争われた裁判を参照しつつ、様々な解釈を紹介していく。学説の押しつけにならず、「~という説が有力である」という形で書かれる。著者の意見も披瀝されるが、基本的に中立を目している。

この分野には疎いので基本的な事項から学ぶことが多かった。例えば日本国憲法の主題の一つをなす、国民主権について二つの区別。(1)国の政治のあり方を最終的に決定する権力をもつのは国民である。これは権力的契機であり、憲法改正権に表される。ここでの「国民」は、実際に政治的意思表示を行うことができる有権者に限られる。(2)国家の権力行使を政党づける究極的な権威は国民にある。正当性の契機であり、憲法を制定したのは国民であるという理念に基づく。この「国民」は全国民である(p.39f)。(すると、憲法改正は全国民の名において、一部の国民(有権者)が行うということになるだろうか?)

他に気になったポイントを列挙。思想の自由の独自性について。思想の自由を信仰の自由や表現の自由とは別に補償している憲法は、諸外国にはほとんど見当たらない。これは、表現の自由を保障すれば十分であると考えられていたことなどによる。日本国憲法の規定は、治安維持法での思想弾圧、内心での思想の自由が侵害された事例に鑑みたものである(p.121)。

表現の自由を中心とする精神的自由と、財産権、職業選択の自由などの経済的自由は、その自由を制限する立法の合憲性の判断に異なる基準がある(二重の基準の理論)。経済的自由は政府がまともに機能していれば是正可能だが、精神的自由は民主政の過程を支えるもの。精神的自由の制限の合憲性は、特に厳しい基準によって審査される。(p.153)

国会が国権の最高機関であること(第41条)は、国会が主権者たる国民によって直接選任されていることの「政治的美称」である。三権分立のもとでは、国会は最高の決定権を持つわけではないし、国政全体を統治する権能を持つわけではない。「最高機関」という言葉を法的意味に理解することはできない。(p.220)

東京23区(東京都特別区)は憲法上の地方公共団体ではないという判決(p.284)は奇異に感じた。

政治活動の自由の制限や労働基本権の制限などの、公務員の人権の制限の根拠は、国民全体の利益の保証という抽象的な根拠付けと考えられていた。しかし現在では、その根拠は「憲法が公務員関係の存在と自立性を憲法秩序の構成要素として認めていること」にある(p.93,209)。この論点は、普通に考えると前者に思われる。話題として踏まえる価値がある。

最後に、基本的人権の根拠について。どうも論が混乱しているように見えた。著者は次のように書いている。基本的人権は当然に人間に固有する憲法以前に成立している権利である。人権を承認する根拠に神や自然法を持ち出す必要は現在ではなく、「人間の固有の尊厳に由来する」(国際人権規約前文)とすれば足りる(p.74)、と。しかし同時に著者は、日本国憲法にある人権が「信託されたもの」(第97条)、「現在及び将来の国民に与へられる」もの(第11条)という規定を、「天、造物主、自然から信託ないし付与されたもの、ということ」(p.72)と解している。人権ではやはり法制定暴力が必要なのではないか。人間が(そして人間だけが)「固有の尊厳」を持つのはなぜか、という問いにはやはり答えられていない。
スポンサーサイト
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://exphenomenologist.blog100.fc2.com/tb.php/256-fc741f92

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する