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アントニオ・ダマシオ『デカルトの誤り』

デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳 (ちくま学芸文庫)デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳 (ちくま学芸文庫)
(2010/07/07)
アントニオ・R・ダマシオ

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前頭前皮質に損傷をおった患者は、意志決定に破綻をきたす。知力や言語能力は全く問題ないが、合理的・計画的な判断ができない。またそれと同時に極めて冷静であり、とても感情が薄い人間になる(p.94f)。この二つ--意志決定と感情--には関係があるのではないか。この二つは伝統的には理性と感性として分離されている。デカルト的に言えば、理性は思考するものres cogitansであって、感性は身体、つまり延長するものres extensaに属するもの。この二つは存在論的にはまったく別のカテゴリーなのだ。それはプラトンの二元論から始まり、19世紀まで続く長い思考の伝統である。著者はこの伝統に疑を唱える。

結論から言えば、感情は意志決定をサポートするし、導く。著者はこの感情の役割の理解のために、ソマティック・マーカーという概念を提示する(p.271)。これは、特定の選択結果がもたらすであろう結果に感情を付ける。生得的な情動だけでなく、習慣的に獲得した二次的情動も含め、あるシナリオの意味をもたらす。将来の結果の重要性を自動的に予測する。ソマティック・マーカーが無ければ、計画的な意志決定ができず、目の前の事柄に容易に打ち負かされる(p.333)。つまり、「感情が最善の状態にあるとき、感情はわれわれをしかるべき方向に向け、論理という道具を十分に活用できる意志決定空間の中の適切な場所へわれわれを導く。」(p.22)

心や身体で起こるすべての活動に対して、その信号を入手している前頭前皮質は、ソマティック・マーカーの神経機構がある場所として適切である(ちなみに、同様にすべての活動の信号を入手しているのが、海馬の入り口にあたる嗅内皮質)(p.282)。前頭前腹内側部を損傷している患者のエピソードがソマティック・マーカーの役割を鮮やかに描き出している。この患者は、凍結している路面を運転していてタイヤが滑ったが、パニックにならず冷静に運転した。だが一方で、次回の来所日を決めようとすると、あらゆるオプションや帰結を冷静に止めどもなく話して決められない(p.300)。著者が示唆するように、カント的な実践理性はそれだけでは何も決められない。感情による選択肢の重み付けが無ければ、意志決定はできないのだ。これはまさにビュリダンのロバの問題だ。また、フレーム問題の話でもある。

つまり、視床下部などの古い脳構造は情動的・本能的であり、大脳新皮質などの新しい脳構造は理性と意志力があるという描像は適切ではない。新皮質的とされてきた合理性は、皮質下的とされてきた生体調節の装置なしには機能しない。「自然は合理性の装置を生体調節装置の上に組み立てただけでなく、<そこから>、そして<それを使って>組み立てたのだ」(p.205)。また情動も皮質下だけでなく新皮質の制御下にもあるし、感情は他のイメージに劣らず認知的である。(p.250)

著者はこうした理性と感情の絡み合いから、心と脳の問題に切り込む。結論から言えば、「心は非身体的な脳からではなく一個の有機体から生じる」(p.346)。ここで一個の有機体というのは、脳だけではなく(脳以外の)身体も含めた、一個の人間組織そのものである。実は心を考える際は、その有機体の周囲の環境との相互作用をも考慮に入れなければならない。これはたしかに心は脳が生み出す。だが、心がかくもうまくやっていくには、脳だけでは不可能なのである(p.378)。

疑問を抱いたところを三つ。
(1)著者は意志決定と情動が依存し合うこのシステムを、その方が自然選択において有効だった(p.144)と述べる。だがそれは何も言っていないのではないか。たしかに自然選択に不利なものは残らないが、それは有利/不利の定義そのものが自然選択で残ったかどうかによるからだ。よくあるトートロジーでは?
(2)著者は思考はイメージからなると言う。そしてこのイメージを内的に順序づけ配置する能力が、脳が心をもつ条件だ(p.151)とも。聴覚的であれ視覚的であれ、イメージにならないものは知り得ないとまで言う。数学においても、数学的記号をイメージしている(p.177)。かならずしもすべての数学的思考ではないかもしれないと著者は認めるが、数学的思考におけるイメージの存在は、他の単純な知覚的認知とは違うだろう。
(3)デカルトを論駁しようとする箇所(p.373f)は、残念ながら水掛け論だ。デカルトの議論の基本構造を理解していないと言われるかもしれない。たしかに我々のような精神は身体無くしてあり得ないのかもしれないが、デカルトの出発点はそう思考する本人そのものである。客観的なその来歴・組織の話ではない。身体から独立した脳という想定の可否は、デカルト的懐疑の現代版であるパトナムの「水槽の中の脳」議論で試せる。ダマシオの結論は、そうした状況はかなり見込み薄であるというものだ(p.345)。そこではあくまで、この想定の概念的可能性は否定されていない。

とてもいい本なのだが、どうも訳が良くなくて読みにくい。学術的な本だからある程度は仕方ないにしても。このテーマの本なら、ルドゥー『エモーショナル・ブレイン』の方がいいな。
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