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ロバート・ライシュ『暴走する資本主義』

暴走する資本主義暴走する資本主義
(2008/06/13)
ロバート ライシュ

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著者の見解に賛成するかはともかく、よく書けた素晴らしい本だ。現在の経済的な問題を資本主義と民主主義の対立として捉える。ただ利益を追い求めるだけの企業がよく批判にさらされるが、著者に言えばそれは企業の正しい姿。現代的な資本主義、超資本主義supercapitalismの正しい姿だ。資本主義に民主主義を持ち込む考えが間違っているのだ。「資本主義を民主主義から分離し、両者間の境界線を守る必要がある」(p.228)。私たちは資本主義において投資家・消費者としての利益を追求する一方で、民主主義において市民としての公益を追求する。通常、投資家・消費者としての利益が優ってしまう。だがそれによる市民としての公益の損害は見合っているのか?問題はこの二つのバランスをどう取るかであり、それはまだ分かっていることではない(p.121)。

現代との対照で提示されるのは(擬似)黄金時代である。ここでは資本主義と民主主義のバランスがまだ取れていた(ように見える)。ここで著者が描く1950年代のアメリカ企業の姿は、日本の高度成長期のそれに重なることにを意外に思った。競争というリスクを取らず、談合と計画によって価格を維持する大企業。効率的に計画するために、生産過程は緻密で予測可能な形で組織された。こうして厳格な組織図、中間管理職たちが誕生する(p.40)。年功序列による給料制を導入することにより、企業は生産コストを容易に予測できるようになり、従業員は将来の生活設計を立てやすくなった(p.52)。つまり、年功序列と終身雇用である。

こうした蜜月時代を崩し、超資本主義の時代を拓いたのは、著者によれば三つ。技術革新、グローバル化、規制緩和。特に1970年代の技術革新が果たした役割は大きい。そしてそれは著者によれば「ほとんどが米国国防総省生まれ」(p.76)である。つまり半導体、流通の新たな仕組み、後のインターネットへと発展する軍事ネットワークなど。これらが参入障壁を崩し、企業間の競争を激化する。もっとも大きなコストは賃金だから、企業は人員整理と賃金カットを迫られる。こうして巨大な寡占企業や労働組合が崩壊し、企業の利益を超えて公益に貢献する企業ステーツマンが退場する。公益に貢献するような余裕はなくなったのだ。こうして消費者と投資家が権力を獲得し、市民が権力を失った(p.117)。かくして民主的資本主義がもたらした相対的な公平さ、安定感は失われ、超資本主義の時代が到来する(p.70)。

企業を競争に駆り立て、利益の確保を第一としているのは実は我々である。つまりより収益の高い投資を求める投資家としての我々であり(自分で投資しなくても、年金ファンドなどを通して我々は間接的に投資家である(p.96))、一円でも安いものを追い求める消費者としての我々である。我々は誰にも強制されたわけではない。我々は利益のみを追い求める企業の姿を批判するが、それは我々が生み出したものだ。企業は「私たちの犯した罪のせいで非難されている」(p.123)。著者はこれを(魂を売って便利さを手に入れるという)「ファウストの契約」(p.135)とまで呼んでいる。

本書のハイライトは、こうした超資本主義と民主主義の関わりである。この二つの境界線をきちんと確定せよ、と著者は訴える。この境界線は曖昧だ。お互いにお互いの領域を侵略しているのである(p.285)。民主主義に資本主義が喰い込んでいる一例が、企業のロビー活動である。企業がいかにしてロビー活動によって政治を動かしているのか、豊富な例が挙げられている。一見、企業は公益に貢献しようとしているように見える。古きよき、(擬似)黄金時代のように。だが、よく見ると実は企業利益追求のための、ありふれた競争優位の戦いである(p.202)。

逆はどうか。民主主義が資本主義に喰い込んでいる例は。著者によるとそれはあるが、偽の民主主義である。ここが本書の一番論議を呼ぶ点だが、CSR(企業の社会的責任)がそれだ。企業は投資家や消費者に報いるため、利益をもたらす存在であり、それが企業の唯一の責任だ。超資本主義においては、企業は社会的に責任を果たすことはない(p.233,242)。企業は道徳的主体ではない(p.269)。企業を道徳的に非難することは意味が無いどころか、本来の民主主義的プロセスを毀損する。例えば公聴会に企業トップを呼んで道徳的に非難し叱責することにより、企業行動を変えようとする動きが近年のアメリカにある(先頃でもトヨタ自動車やBPに対してなされた)。だがその後の企業行動を変えるような法律は出てこない。議員のパフォーマンスで終わっている。ここにあるのは広報活動であって、民主主義が機能しているのではない(p.269)。雇用の問題、地球温暖化の問題などは「資本主義の失敗ではない。資本主義の役割は経済のパイを拡大することである」。そのパイをどう切り分けるかは社会が決めることであり、民主主義に課せられた役割なのだ(p.4f)。

正しい道は、道徳的に非難するのではなく、ルールを変えることだ(p.294)。企業は単に経済ゲームのルールにしたがって利益を追求しているだけ。CSRはそれが企業利益に貢献する限り行われる。ただの免罪符だ。企業を道徳的に問うこと・企業やその幹部の恥知らずの行動を引き合いに出すことは、ゲームのルールを変更すべきか否かという、難しいがもっと重要な問題から注意をそらせてしまうのだ(p.278)。超資本主義に対抗する民主主義とは、企業行動を規制する法律や規則を作ることである(p.174)。

こうしたCSRなんて意味が無いという過激な思想は、著者の「企業は人ではない」という発想に基づく。企業は契約書の束以外の何ものでもなく、発言の自由、法の適正手続や、民主主義における政治的権利を持つべきではない(p.297)。法律や規制をめぐって裁判などで争う権利も必要ない(p.305)。企業は民主主義のプレイヤーではないのだ。だから、法人税も廃止すべきだ。法人にでなく、株主に課税すべきだ。法人所得は株主の個人所得として扱われ、それぞれの課税額に従って税額を徴収する。それにより、企業は利益を留保する動機を持たなくなる。また、高所得層の株主ほど高い税額を課すことができるといったメリットもある(p.300)。

著者のこうした企業観は十分に批判される必要があろう。どうも株式会社より合同会社のようなイメージが浮かんだ。株式会社においては、投資家はその出資分においてのみ責任を負う。もし企業の法人格を大幅に制限するなら、企業行動に対する保証、責任の担い手などはどうなるだろう。所有と経営の分離は?などの疑問が浮かぶ。著者は超資本主義においては企業は利益のみを追求し、それでいいのだと諦めている。民主主義はそれとは完全に分離したところで営まれるべきだ、と。本当にそうだろうか?(擬似)黄金時代の「企業ステーツマン」をいくばくか復活させる方法はないだろうか。企業は、本当に道徳的主体ではまったくないのだろうか?ここには法律の問題だけで、道徳の問題はないのだろうか?

最後に、一番目についた素晴らしい洞察を。カネで企業を動かす傾向、1980年代のTBO、LBO、プロキシファイトや2000年代のヘッジファンド、プライベート・エクイティ・ファンドを生み出したのは、人々の「貪欲さ」ではない。やる気ある優秀な男女を投資銀行やビジネススクールへ駆り立てたのも、「貪欲さ」ではない。「これらすべてのケースにおいてきっかけとなったのは、それまでは存在しなかった「チャンス」だった。「貧欲さ」を「チャンス」と混同することは、欲望と可能性を混同することと同じである。例えば、四〇年前と比べて今の学生の性欲が高まったわけではない。だがそれを行使する気軽さ(可能性)は、昔よりはるかに増したと言えるだろう。」(p.98f)

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