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鈴木大拙『日本的霊性』

日本的霊性 (岩波文庫)日本的霊性 (岩波文庫)
(1972/01)
鈴木 大拙

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有名な本。日本的霊性について。日本的霊性は著者の言葉だが、つまるところ宗教心のこと(p.16f)。日本において宗教意識がどのように生まれてきたか、仮説的歴史を語る。著者によれば、それは浄土思想と禅において現れる。ということはつまり、鎌倉時代になって初めて現れるのである。鎌倉時代において、日本的霊性の持っている最も深奥なところが発揮させられたのだ(p.78)。

著者の見立てによれば、平安文化は地に足がついていない。平安時代にも仏教はあったが、それは「大地に根ざした」ものではない。平安時代には日本的霊性はまだ現れていないのである(p.42f)。平安時代の文学に見られるように、それは女性的・貴族的で、本当の意味における現実性を欠いている。それは崩壊し、取って変わられなければならなかったのだ。平安文化から浄土思想へ--「物のあわれ」から「念仏のまこと」へ(p.97)。

鎌倉時代が日本的霊性の現れる舞台となったのは、それが地方に基盤を持ち、大地と直接関わっている農民たちと交渉するものだからだ(p.97)。法然・親鸞も、地方に流されたことが意味を持つ。日本的霊性は大地に根ざしたものであり、「大地を離れられぬ」(p.58)。ここにはまた、蒙古襲来という外的因子も、日本人が自らを見つめ直す起因となった。日本的霊性の展開には、蒙古襲来が大きな影響を与えている(p.52)。

こうして成立した、浄土思想と禅が日本的霊性である。確かにそれは外来のものだが、渡来したのは儀礼とその付属物にすぎない(p.20f)。日本的霊性は鎌倉時代にあって、浄土思想と禅をきっかけとして発した。浄土思想と禅は日本的霊性が発する縁であって、因ではないのである(p.24,109)。「仏教は実に日本的霊性の自覚の顕現」であって、世界に最も宣伝しなければならない日本の文化的資財である(p.62)。

その日本的霊性を特徴付けるのは超個の人が個己の一人一人であり、この一人一人が超個の人にほかならないこと(p.87,127)とされるが、私には分かるようでどうも分からない。こうした霊性はまずもって顕現するものであり、知的理解によって生じるものではない(p.132)。学問的論議は宗教を生み出すものではない。

浄土思想と禅、と語りながら基本的には浄土思想の話が続く。法然と親鸞は一人だと見るほうが良い、という見解(p.103,150)は特徴的だ。後半は市井の浄土思想をたどる。一般の極めて素朴な熱心な宗教心の持ち主(妙好人)をたどりながら、ひたすら念仏に没頭するその姿を描く。浄土思想にとって重要なのは念仏であり、浄土往生すらも「妄念」に入るという考え(p.169)を延々と展開する。このあたりは驚きを覚えた。
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