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マイケル・ダメット『思想と実在』

思想と実在 (現代哲学への招待―Great Works)思想と実在 (現代哲学への招待―Great Works)
(2010/06)
マイケル ダメット

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言語の意味についての考察から形而上学へと至る道、というダメットがずっとたどってきたテーマを扱う。いつもながら重厚な議論が続く。ダメットにとってこの本は「自分の好きな仕事を自由に行えると感じた最初の機会」(p.i)だそうだ。その議論はおなじみの真理条件意味論の批判と反実在論(本書では正当化主義と名前が代わっている)、フレーゲ・ラッセル・ウィトゲンシュタイン論、真理のミニマリズム批判、時間論、実在について、そして神にまで及ぶ。

意味の理論から形而上学へ、ということでその至る先を劣化コピーすると以下のような感じ。世界とは事実からなっている。事実とは真なる命題のこと、あるいは同一視しないにしても命題に一対一対応する(p.9)。命題は概念からなる。したがっていかなる概念があるかが、いかなる命題があるかを決めている。だからいかに世界を捉えるか(概念化するか)を離れて、世界は存在しない。動物と我々は異なる捉え方をする。したがってその世界は同じではない。単一の世界、という考えを我々は持っていない(p.168)。

あらゆる捉え方を離れた、それ自体としての世界という概念は、不毛な数学的モデルに終始する(p.164f)。感覚を持つ合理的な観察者(世界を捉える観察者)が存在しない限り、物質や放射などの物理現象が生じることすら、可能ではないのだ(p.161)。特定の捉え方によらない、「それ自体としての世界」を無理矢理に考えると、世界をあるがままに捉える神という心を要求することになる。世界は、それがどのように捉えられるかとは独立に語ることは意味をなさないのだから、神(というわれわれの概念)と世界(というわれわれの概念)は相互依存している(p.169f)。

だとしてもそんな神の捉える世界はわれわれには理解できない。実在とはわれわれが把握しうるものの世界である。われわれを超越した世界について語ることは、明確な意味をまったく欠いた言葉の形式を用いることに過ぎない(p.38f,153f)。いかにこれが奇妙な制限に思われようとも、「われわれが形成できるどんな命題についても、その真理を認識する何らかの手段をわれわれがもつこととは独立に、それが真であるということがいかなることであるかを知っているという幻想を放棄し、それを把握するわれわれの能力に依存するような真理についての考え方に甘んじなければならないのである。」(p.141f)

これはけっこう破壊的な結論である。例えば、世界における物理量に対して、それが確定したひとつの実数である(代数的数であれ超越数であれ)というのは実在論的幻想とされる。われわれが単に人間的限界としてある有理数区間においてしか物理量を知りえないのではない。ひとつの確定した実数を得る決定可能な方法がない以上、そのような実在論的幻想の想定には、いかなる意義も与えることができない(p.143f)。これは「大抵の人々が誤って執着している超実在論的観念」(p.173)なのである。われわれの測定限界により分からないのではなく、そもそもそんな確定した値なんてあるとは言えないのである。

それは何か不遜な態度に思えるかもしれない。われわれが理解できる以外に世界など存在しないと述べるからだ。だが、そう考えない人たちのほうが不遜だ。彼らは、まるで自分たちが神であるかのように推論するという不敬の罪を犯していることになるのだから(p.182)。

これが形而上学的結論だ。そしてこれを、真理条件意味論への批判と、正当化主義の主張が導く。本書が述べる批判点は、それまでのダメットのそれと異なっていて、整理されている。真理条件的な意味の説明への批判は、いままで二つの点でなされてきた。(1)真理条件的説明では、文の理解を形作っているとされる知識が一般に十分には表出されないという表出に関わる点。(2)真理条件的説明は、その知識がいかに獲得されるかを説明しないという知識取得に関わる点。だが、中心となるのはそれらではなく、そもそも説明が循環しているという点だという(p.91)。つまり文の理解を、その文の真理条件の知識(その文が真になるのはいかなるときか)によって説明する真理条件的説明では、その文が表現する命題の把握を、その真理条件という別の命題の把握によって説明している。命題は文の理解によってのみ説明されるとする言語哲学者からは、この説明は循環である。思考の哲学者はその限りではない。だが、思考の哲学者が命題ないし思考内容について真理条件的な説明を与えるなら、ある命題の把握を、その命題の真理条件という命題(理論的知識)によって与えることになり、同様に循環である(p.83ff,131)。真理条件の知識は命題的な知識、理論的知識である。その限り、この循環は逃れられないのだ(p.96)。

だがしかし真理条件の特定は、カードゲームでカード間の序列を知るようなものだ。どんなカードがあるのかを知っていても、まだゲームのやり方については何も知らない。真理条件を知っているだけでは、言語の話し方についてはまだ何も知らない。言語の使用についての説明が必要である。「真」や「偽」というという概念は、主張という実践と結びついていなければならない(p.86)。言語は使うものなのだ。命題は言語を使うという実践から抽象された存在である(p.19)。

かくして正当化主義はこう述べる。文の理解とは次のような能力である。それは、適切な位置に自ら立つためのいかなる実効的方法がなかったとしても、その位置に立つ場合には、その文の真偽を認識する能力である(p.98)。これは能力であって、真理条件意味論が要求するような理論的知識ではない。「ポルトガル語を話せるか」という問に「やったことがないので分からない」という答えは奇妙だろう。言語的知識は理論的知識と実践的知識の中間にある。言語は一定の実践を要求する(p.82)。言語は理論的知識ではなく、中間的知識(使用する能力)であり、言語的知識は命題ではない。だから真理条件的説明のような循環には陥らない(p.93f)。

正当化主義の意味の理論がもたらす形而上学的帰結は、実在は積み重なっていくという実在像だ(p.151)。われわれがその有様を決定する実効的な手段をもつような世界の有様に関しては、確定していると言える。それ以外は、そうではない(p.133)。だから例えば、不定の未来に関わる言明(これは無限総体上への量化を含む)は、それに対して現在のいかなる証拠もない場合は、それが真であるはずだ、とは言えない。むしろ、真になる(comes to be true)のである(p.119f,150)。


というのが劣化コピーした筋だ。あるいは自分が読み取れた限りの内容だ。さてたぶんどこか誤解しているのだろうが、二つのポイントがおやっと思って気になったので書いておく。

(1)ダメットはこう書いている。実数上の関数は、引数としての各実数に対してそれが取る値によって与えられる。任意の引数に対する関数値は、他の引数に対する値から独立に決定される(p.142f)。これは関数を、入力値と出力値の順序対の集合として考える、(一応標準的と言ってよい?)集合論的関数観だろうか?だとすると、それはいかにも直観主義者ダメットらしくないと言えないか。

(2)「理解についての真理条件的な説明においては、もしある言明が真になりえないならば、それが真であるとはいかなることであるかを知るというようなことはありえないのであり、それゆえ、その意義の把握というようなものも存在しない。つまり、その言明はいかなる意義も持ちえないのである」(p.148)。これはどうも変だ。文「1=0」は真になりえないが、この文はいかなる意義も持たないのか?われわれはこの文の真理条件を知り得ないか?その構成要素はどれも理解可能だと思うが。
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