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丸山圭三郎『言葉と無意識』

言葉と無意識 (講談社現代新書)言葉と無意識 (講談社現代新書)
(1987/10/19)
丸山 圭三郎

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その昔、有名だった本。いまから読むと、ああ80年代はこれでも通用したんだなぁ、とその当時の知的ファッションを懐かしく感じる。はっきり言って、いまではこの類の本は一笑に付されるだろう。

本書はロゴスとパトスという二分法を追ったもの。世界を理解する、理性的図式としてのロゴス。だがそういった合理的な意識によっては捉えられない世界があることは、確かである。著者は、そのような非合理的な世界、無意識、パトスの領域について語ろうとする。

初めに、パトスもまたロゴス/パトスという二分法のひとつであるから、それ自身ロゴスの象徴化・カテゴリー化の働きによってもたらされる(p.37)という記述があるのが好印象。これはそのとおりであって、パトスはそれ自体パトスとして概念化されたものである。それはロゴスの働きに付される限り、我々にとって意味を持つし、そもそも何らかのものとして理解される。

続くソシュールのアナグラム研究の意義を語る部分は、さすがにソシュール研究者と言っていい。クリアで示唆に富む記述だ。ソシュールの1906-1909年に渡るアナグラム研究は、その開始以後にかの有名な一般言語学講義があっため、アナグラム研究を断念して一般言語学を打ち立てたと考えられてきた(ボードリヤールなど)。だがソシュールの一般言語学は1894年ころにすでに完成している。そこでの構造主義的方法の限界にあたり、ソシュールはアナグラムの研究に至ったと考えるべきなのだ(p.93f)。

こうして著者は構造主義的手法を超えるものをソシュールから読み取ろうとする。だがソシュール自身がそうであったのではない。ソシュールは、アナグラムは詩人の意識的行為であるという確信を持っていた(p.110)。それゆえ、かなり強引なアナグラムの指摘をするし、また実際に指摘した詩人パスコリには無視されてしまった(p.97)。このソシュールの挫折は、合理主義的思考の挫折である(p.117)。これは、ソシュールが意識的行為か偶然か、という選択肢しか持っていなかったためである。ここに著者は、意識のレベルとは別のレベルだが、偶然ではない活動のレベルを見る。詩の産出は意識の表層で行われるのではない。かといってまったくの偶然ではない。主体の壊乱(ラカン)が行われた、深層のロゴス=パトスの領域で行われるのだ(p.139)。この区分の話が、芸術における模倣か独創かという話と絡むあたりは、なかなか示唆的であると感じる(p.112f)。

さてこうしてパトスの領域を取り出した著者だが、この後の流れは残念ながら失望の連続である。パトスの領域を積極的に取り上げるばかり、ロゴスの領域には静的で硬直した図式が押し付けられる。こうした発想こそ、著者の批判するところの硬直した合理主義的態度なのだが。著者の言うよう、パトスの領域は非合理なものの世界なので、言ってしまえば結局なんでも言えてしまう。ほとんど連想ゲームに近い箇所も散見される。

また、偶然がなしうることについて著者は理解が及んでいないようだ。例えば、フランスの小説家グリーンについての話(1934年)が載っている。彼は自分の書く小説のなかに、殺人や自殺がなぜか階段の踊場で起こることになっていることに気づいた。そして自分の家系を調べたところ、何世代前かの祖先が階段の踊場で非業の死を遂げていた。この話から著者は言う。これはなんと彼の家系がもつ集合的無意識であると。そしてこれを一笑に付すのは近代科学や実証主義の信者であり、意識的/偶然という二者択一に囚われているのだと(p.147)。いくら大学者の書いたものとはいえ、ちょっと変だなと感じる人のほうが多いのではないか。ちなみに、偶然によって、何らかの因果的な出来事であるような事態が生じることがあるのだ。例えばドーキンス『盲目の時計職人』やタレブ『まぐれ』あたりを読めば分かる。

さらに、著者は科学的知識というものの性格についてまったく理解していないことは断言できる。科学はそんな静的で硬直したものでは決してない。UFO(と書いているが、地球外生命体の移動体のこと)の存在を否定する科学者について、著者は以下のように記している。
UFOに関して発言する資格がまったくない私にも、我国の科学者の硬直した態度ははっきりと見てとれる。彼らは、地球上の物体の落下現象を、天体間の法則にまで昇華させたニュートンの、あの壮大なフィクションとしての自然科学の素晴らしさを忘れてしまい、特定パラダイム内の、答えの決っているパズル解きに夢中になっているだけではないだろうか。(p.152f)

先生、耄碌しましたか。ここまでひどい文章は久々に見た。このような「嘆かわしい傾向」はパトスの領域を無視した結果だという。突っ込みどころ満載だが、ひとつだけ書くと、現代の物理学はニュートンの時代なんかより遥かに多くの想像力を必要とする。それは例えば様々な素粒子の奇妙な振る舞いについて、理解するのにいかに凄まじい想像力が必要かと考えれば分かる。科学について何も知らないなら、何も語るべきではない。冗談じゃないよ。

それにすぐ続く、チョムスキー批判も完全に的外れ。チョムスキーが何をしたいのかまったく分かっていない。チョムスキーの生成文法は、いくら深層といったも、所詮は一切の文節に先立って存在する静的な精神的鋳型の仮説に過ぎない、言語とそれが表現する観念のレベルの話しかしていず、これはソシュールのラングのレベルである。意識の深層に動くランガージュのレベルに達していない、と批判する(p.155)。まず、ソシュールのラングは個別の言語体系のレベルである。チョムスキーが語るのはそのレベルの話ではなく、各言語に普遍する深層文法である。またチョムスキーの問は、なぜ言語に普遍性があるのか、なぜコミュニケーションが成立するのかにある。パトスのレベルがあっても、どうして我々は同じ意味をコミュニケーションできるのか?パトスの領域がもたらす、ロゴスに対する様々な撹乱にもかかわらず、なぜ我々はコミュニケーションできるのか?これは表層/深層などという浅はかな二分法の問題ではない。そんな二分法こそ表層のレベルの話だ。

何よりも一番失望した、というよりその無責任さに心底怒りを覚えたのは、精神疾患に関する記述である。藤原定家の本歌取りやアナグラムを、彼が持っていたかもしれないてんかん性意識障害に帰する(p.86)だけで十分に差別的だが、まあこれはまだよいとしよう。問題は、指揮者シノーポリのマーラーについての発言を取り上げるくだり。マーラーは偏執症だったが、治らなくてよかったのだと。何が異常で正常かは分かることではない、むしろ我々のほうが異常かもしれないのだ(p.220f)。そして、精神疾患を薬で治療する試みを「いかがなものか」と述べた後、次の衝撃的な記述に至る。
それ以上に問題とせねばならないのは、多くの臨床心理学者が治療の目的として「患者の社会復帰」という錦の御旗をたてる発想自体である。もし豊穣な生の働きをおさえて、均衡のとれた社会的人格を強制するのが治療であるとすれば、これは治療というよりは科学による新たな抑圧であるといわねばならないだろう。(p.224f)

なんたること。実際に疾患を抱え、他人とうまくコミュニケーションできず、社会生活がうまく行かずに苦しんでいる患者やその家族、治療に取り組んでいる医師が聞いたらどう思うことか。私がそういった立場であれば、一発殴っているだろう。抽象的な言葉を弄ぶ、まったく部外者の浮き足立った学者の戯言、とされても文句あるまい。

著者は言う。「いかなる<知の>の営為も、<今、ここ>に生きる生身の人間とその日常から遊離してはならないだろう。[...]それにもかかわらず、物事を突き詰めて考えていくと、ともすれば抽象的な行論に陥り易い。」(p.194)まさにそのとおり。そしてそのような生身の人間からまったく遊離した、抽象的な言葉を弄んでいるのはまさにこの著者自身である。学者としてこの無責任な態度は、強く指弾されて然るべきだろう。80年代はこれでも通用したのである。


最後に、この手の思想書(私は元哲学徒として、本書を「哲学書」と呼ぶのには強く反対する)によくある、奇妙な論理の運びを取り上げておこう。抜粋しながら書くと以下のようになっている。
私の親しい友人の一人に辣腕の会社経営者がいてよく酒をくみかわすのだが、私の書いたものはすこぶる評判が悪い。「君の言うソシュールだとか言葉だとかいうことと、ぼくらの実生活とどんな関係があるのかねえ」と一笑に付された挙句、「ぼくにとって関心があるのは、金と性だけさ」と言われるのが常である。ところが酔いがまわるにつれて、彼は真剣にくりかえす。「ぼくは死ぬのが恐ろしい。君も哲学めいたことをやっているなら、ぼくを救ってくれよ。」この友人に限らず、多くの人々にとって、言葉は事物の名前に過ぎないのかも知れぬ。具体的な政治や経済現象だけが大切な現実であって、言葉による抽象的構築物である文学や哲学は所詮<口舌の徒>の玩具である。[...]ところで何故に、プラトンもアリストテレスも読まない一般人の常識が、まさに西欧の形而上学と同じ考え方、つまりは「言葉は物や観念の名前である」という考え方にとらわれてしまっているのであろうか。(p.194f)

「一般の人は、言葉は事物の名前に過ぎないと思っている」という命題がこれで正当化されていると考える人は間違っている。そもそもソシュールが実生活にどう関係あるのか、という問いがなぜ言葉は事物の名前に過ぎない、となるのか。さらに、それが「かもしれない」だったのに、いつの間に「である」に変化しているのか。謎だらけである。(ちなみに言葉が事物の名前ではないことは、助詞に注目すれば一般人でもすぐ分かる簡単な事態である)


80年代はこれでも通用した。少なくとも、いまは通用しないと思いたい。努々、このような空理空論を弄ぶことなかれ。
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