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マーカス・ジャキント『確かさを求めて』

確かさを求めて―数学の基礎についての哲学論考確かさを求めて―数学の基礎についての哲学論考
(2007/02)
M. ジャキント

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原著でもだいぶ読んだ本。本書の参考文献も読んだことのあるものばかり。翻訳の質は高く、かなり信頼できる。

集合論の評価については気になるところがいくつかある。カントル・パラドクスに対するカントルの態度を、最終的には絶対的無限クラス(AIM)はパラドクスが起こるからダメだと考えていると評価している。個人的には反復的集合観の萌芽を一つの論点としてもっと読むべきだろうと感じる(p.52)。いかにそれが曖昧なものであれ、カントルの最終的にたどり着いた論点(のひとつ)だろう。

集合論の公理化に至るツェルメロの一連の研究は集合論のパラドクスの解消を目的としていたと著者は言うが(p.141)、そうだろうか。その研究は、選択公理を巡るフランスの準直観主義者たちとの論争において、何が集合論として語られているのか明晰にするためだった、というのがMooreの見解で、自分もそちらに賛成する。もし集合論のパラドクスが問題なら、なぜツェルメロの研究は選択公理の問題から先に始まったのか。

また、選択公理についての評価も少し疑問。この問題は関数についての古い見方にあるという。19世紀初めは関数とは入力から出力を計算する規則であると考えられた。現代は単なる入力と出力の組の集合だ。現在の関数概念を理解すれば、選択公理についてのおかしさは無くなる、と述べる(p.240)。そう単純な話ではないだろう。入出力値の組みとしての関数観は確かに現代数学の合意点だろうけど、プログラミングとか考える場合にはそうはいかない。

他の疑問点は、コード化でべき乗を使っておきながら、PRAでコード化できるというコメントがあるが、ベータ関数についての注記くらい必要だろう(p.196f)。また、以下の引用はよく分からない。ここでの「真の値」が真理値真のことなら、F(e)であれe∈Cであれ、eが型nをもち、かつF(e)やe∈Cが偽の値を持つことがありうる。

したがってe∈Cが真の値をもつとき、かつそのときに限りF(e)は真の値をもつ。しかし、型nの項だけがF(x_n)の中の変数を置き換えられるので、F(e)が真の値をもつのは、eが型nをもつとき、かつそのときに限る。したがって、e∈Cが真の値をもつのは、eが型nをもつとき、かつそのときに限る。(p.278)


他に印象に残った箇所。

還元公理がない分岐タイプ理論での実数解析の無矛盾性は、原始帰納算術PRAですでに証明可能(Burgess and Hazen, 1998)。(p.283f)

ヒルベルト的な有限主義における「有限的全称命題」についての明確な解説。等式「c+1=1+c」が全称命題「任意の正整数nについてn+1=1+n」と異なるものであり、正整数の一般的概念を前提とするものではないということ。また、それはメタでの数項を用いた図式でもないこと。(p.170f)

「自然数や実数や集合というものに対する我々の信念をもっともよく捉える理論は2階」(p.206)


amazonに読書記掲載。
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日本語で読める数学の哲学の本はとても少ないが、本書は信頼の置ける入門書として真っ先に挙げることのできる素晴らしい本だ。難解な論点についてもかなりしっかりと論じられている。入門レベルを超えた人にとっても、この本が提示している論点の整理の仕方は参考になる。

内容は数学の基礎についての歴史的論争を巡っている。(素朴)集合論の成立とカントルのパラドクス、ラッセルのタイプ理論と『プリンキピア・マテマティカ』における困難、公理論的集合論、ヒルベルトの有限主義プログラム、ゲーデルの不完全性定理と続く。

入門書として記述のスタンスは古典主義的である。そのため、直観主義についての論点は少ない。結論としては、公理論的集合論で定式化された古典数学全体の信頼性は保証できないが、その主要な部分(例えばWKL_0で証明可能な部分)の信頼性は確証できるし、全体の信頼性を信じることもできる(p.265)というもの。

優れていると感じた論点をいくつか挙げる。

まず、カントル・パラドクスに対するカントルの対応を詳細に検討している箇所。カントルは、最終的にはクラスが絶対的無限であるかどうかの基準を、順序数全体のクラスとの一対一写像に求めた。これは正当な評価であるが、カントルは結局、順序数全体が集合ではないという論点をブラリ・フォルティのパラドクスが起こるからだと見る(p.56)。それはパラドクスが起こるからその集合は排除されるべきだ、という考えであり、独立した理由を与えているとは言えない、と著者は判断している。

また、ラッセルの悪循環原理(循環論法原理)についても素晴らしい解説だ。ラッセルの錯綜した悪循環原理についての話を、定義の表現がその表現自身を含むクラスに言及するものと、それが定義するものを含むクラスに言及しているものの二つに分ける。そしてラッセルパラドクスにおいても、リシャールパラドクスのような定義可能性のパラドクスについても、解決になるのは後者の原理であるとしている(p.83-93)。

さらに、ゲーデルの第二不完全性定理(本書は導出不能性定理と呼ぶ)の証明で出てくる、導出可能性条件と証明述語の内包性に関するロッサー、デトレフセン、フィファーマンの話はよくまとまっているし、極めてスリリングだ。フィファーマンの証明述語は「第二導出不能性定理の証明はシンタックスに関する述語や関係をコード化する際の内包的妥当性に依存する」ことを明らかにしていると評価している。(p.195,214,217)

紹介文にはロジックの予備知識がなくても読めるかのようにあるが、それは無理だろう。公理論的集合論、タイプ理論、不完全性定理といった学部レベルの論理学の知識は必須だ。それは数学の哲学という学問の性格上、仕方のないこと。だがそうした知識を持つ人が読めば、確立された数学的事実に見えるものが、いかに豊潤な問題を持っているかが分かるだろう。
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