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フランソワ・ズーラビクヴィリ『ドゥルーズ・ひとつの出来事の哲学』

ドゥルーズ・ひとつの出来事の哲学ドゥルーズ・ひとつの出来事の哲学
(1997/02)
フランソワ ズーラビクヴィリ

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ドゥルーズについてただ解説するのではなく、むしろドゥルーズの思考を変奏するように書かれた本。本文よりも、訳者がつけた約60ページもの前書きの方が特徴的な本かもしれない。そこでの訳者の、日本でのドゥルーズの扱われ方に対する批判はかなり共有できる。ドゥルーズの議論を日本で、このコンテクストで論じることがいかなる意味(価値判断の対象となる価値・意義といういみでの意味)を持つのかについて無批判なまま、ドゥルーズを既存の流れに位置づけようとする、浅田彰・蓮實重彦に対する批判は痛烈である(p.11)。そんな扱いでは、ドゥルーズはある面では哲学史家として、ある面ではフランス現代思想のひとつとして位置づけられ、「埋葬される」ことになろう。それはドゥルーズの思考そのものに反することだ。

また、日本語における翻訳という行為に関する、訳者の議論も興味深い。特に、漢語と西欧語の日本語化について。漢語は長い時間をかけ受容され、その間に訓み下し文やルビといった補助装置が作られた。しかし西欧語はあまりに早く受容されたため、そんな装置がない(アルファベットにルビをふる習慣はない)。ここで鍵となるのが、漢語の理解である。例えば、「思う」とその名詞形としての「思考」をつないでいるのは、「考える」と「考え」のような音のイメージ(西欧語の動詞とその名詞形のつながりはこれだ)ではなく、漢字による視覚イメージである。西欧語に通じたものが西欧語の翻訳を読むときにこの役割をはたすのは、知識である(p.46f)。すなわち、音(パロール)のイメージによる和語と視覚(エクリチュール)イメージによる漢語という分化と共存が行われている(p.54f)。

さて本文について言うと、本書が何よりも価値を持つのが、一見「ドゥルーズはこう言っている」的な記述を取りながら、実際はそうでないことだ。極論すれば、ドゥルーズがどう言ったか、あるいは解説する著者がドゥルーズの思想を<正しく>記述しているかなどどうでもいいのである。なぜかというと、思想に対するそうした考え方こそ、ドゥルーズによれば(むしろ、ドゥルーズを変奏すれば、ドゥルーズに接続すれば)廃されるべきものだから。相手の思考の正しさを批判することに意味はない。批判は、思考という最初の肯定的な行為から派生するものに過ぎない。批判は、固有の問題を創造できないまま、旧来の問題系から既存の価値を汲み出すだけである(p.118ff)。哲学において議論など不可能だ、と述べるドゥルーズの次の言葉は刺激的だ。
哲学は議論とはまったく関わりがない。だれのものであっても、問題が何か、どのように提示されているかを理解するだけでも随分苦労する。なすべきは、問題を豊かにし、その条件を変化させること、加えたりつないだりすることで、決して議論すべきものではない。(『記号と事件』)


こうして本書は、考え、思考の本性に関する考察から始まる。通常の哲学的思考についてのイメージは次の三つを通して表現される。(1)考えは真なるものを求めている。哲学は真理を目指すという道徳的善(つまりphilia-sophos)、その真摯さを前提としている。(2)哲学は、それが対象とする世界の外的な事態を予め持っていて、その対象が実在することを実際に探して再認する。考えは真理との間に形式的にはすでに関係を結んでいる。フレーゲ的な意義の存在。(3)哲学には基礎付けの思考がある。様々な真理の間に序列をつけようとする。(p.66-77)

そうではなく、哲学はいつも<ただ中>から始まる。哲学は世界に内在している(p.74ff)。哲学はみずから始まることはできない。考えは真理と根源的に関係するのではない。意義Sinnという形で、それが思考すべき内容、命題をあらかじめ押さえた上で、それに対応する証明、真理を得るのではない。それ以前に、思考はある「出会い」に基づく。ある出会いが考えることを強いるのであり、偶発的に、考えへと巻き込んでいく(p.82)。

したがって、思考にとってまず問題となるのは真理ではない。重要な差異は真/偽ではなく意味/無意味(価値判断の対象としての意味)である。真理値ではなく、S/N比である。その考えは愚かなノイズなのか、それとも他の考えに示唆を送るシグナルなのか。出会いによって考えることに誘われるなら、そこにはいつも、愚かな考えに巻き込まれるリスクがある。愚かであり、何にも接続しない考えは、たとえそれが真理であっても<意味が無い>。考えにとって恐るべきものは誤りであるよりも、愚かな、無価値といういみで無意味な考えに至ることである。著者は、真/偽ではなく意味/無意味という差異に移行するドゥルーズの特徴をうまく描いている(p.85ff)。

偶発的な出会いによる思考のはじまり。出会いという受動的な出来事によって、初めて思考は能動的に始まる。これはまさに受動的総合である(p.113)。出会いはサインという形でもたらされる。まずなんだか分からないサインが感知される。こうしたサインの触発力が働くこの場は、新たな経験を可能にする一般的条件としてまさに超越論的場である(p.111)。これは後期フッサール以降おなじみの問題圏へ接続する思考である(だが決して埋葬しないように)。このサインは、(1)異質なものの視点を折り込んでいる。(2)サインが折り込んでおり、考えにおいて展開するその意味は、新旧二つの異質な次元を通じ合わせる。旧次元からすればそれは不協和音である。(3)そうしたサインの力に触発される主体は、二つの個体化の間を移行する。主体は生成の過程にあり、「さなぎ状」のものである(p.103)。

すなわち考えるとは、「未来そのものとして肯定し、いわば生きがたいものとして生きる可能性に依っている」(p.148f)。それは欲望についても言われている。欲望とは「外在化されるのを求める空虚な衝動であるより、それ自身がひとつの受動的総合なのだ。それは外にはじまる、それは出会いに生まれる。」(p.182)

出会いがもたらす新たな次元という考えは、当然のことながら時間論へと導く。「次元とは異質な諸時間の関係である」(p.155)。著者はこの時間論を、基本的にはベルクソンに接続しつつ語っている。現在は交代するのではなく、次元が一つ一つ付け加わっていくというベルクソン的時間である。だがこの次元の同一性とは何か。私にはこの次元の個体化原理がよく分からない。ここにおいてドゥルーズの非常に重要な概念、つまり多様性と存在の一義性が出てくるが自分には分からない。(p.155-159)


自分は実はずっとドゥルーズの徒だ。ドゥルーズの思考は深いインスピレーションの元だが、研究対象では決してなかった。理由は明確で、ドゥルーズは論じるものではないからである。次のような著者の言葉は、自分もいつでも考えていたことだった。
「哲学はなんの役に立つのか」という問いは、だから、特にまずく立てられている。哲学は生に関する言説ではなく、生のひとつの活動、生が持つ、その数々の移行を保持しながら強度的になる仕方、生に固有の分岐たち、生に固有の両立不能性たちを経験し価値評価する仕方--要するに、分離的綜合の特徴である曖昧さと不安定性の中で、<主体になる>仕方なのだ。この観点からは、折り解くことや、「生きられたもの」に対する意味付けへの哲学者たちの無関心に対する、哲学者の抽象作用に対する、憎しみにみちた嘆きほど苦々しいものはない。哲学者にはほかにもすることがたくさんある。生きる、<なる>、そして生における<主体になる>が。(p.200)
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