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土屋恵一郎『能』

能―現在の芸術のために (岩波現代文庫―文芸)能―現在の芸術のために (岩波現代文庫―文芸)
(2001/03)
土屋 恵一郎

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能について書かれたエッセイ集。著者は、能の美しさを文学で語る能力がないから論理的に語ると言う(p.16)。だがそんなに論理的な文章ではなく、とても感覚的で文学的な文章だ。様々な比喩が出てくるが、その感覚を共有しない人間にはどうも分かりにくい。youtubeで能をいくつか見つつ読んだが、少しは面白さが分かった気もするが。

前半は「私にとって観世寿夫の能は、芸術の理想であった」(p.56)と著者が言う、観世寿夫の能を中心とした、身体・舞踊論となっている。能舞台の上で身体が前後から「無限の糸」で引っ張られているようなその舞踏の姿、「蜘蛛の巣の中の動き」(p.158)、身体と空間の絡み合いについてよく描かれている。

観世寿夫の評価で面白かったのは、音のひとつひとつが遊離するようなグールドの演奏と、制御され、粒子のようにぶつぶつになった途切れる声を出す観世寿夫の比較(p.32f)だった。また、フランスの舞踏家バローとの比較があって、基本的にバローは低く見られている。バローの演劇は身体の中に閉じ込められているのだと著者は言う。たしかに身体は自由に変化するが、「演劇が空間との拮抗であることは無視されている」(p.63)のだと。能に肩入れする気持ちはわかるが、能舞台におけるフランス舞踊というハンデが考えられてもいいと思う。

いつも構造的なものに眼が行ってしまう自分としては、能の物語の構造などが面白かった。例えば、能のなかでの「序の舞」の位置づけ。著者は決して、序の舞は伝統的にそう位置づけられているのだと片付けない。「序の舞」は能の物語を分断する位置にあり、断絶、空白をもたらす(p.17)。その構造上の不安定性が逆に、舞を物語の枠組みから自由にする。こうして舞は舞そのものへと抽象化される(p.21)。このようにして舞を見せるものとして能の構造が出来上がっている(p.25)。

また、世阿弥に関する後半の論考も、興味を惹かれるものだ。例えば、著者は脳における夢という契機を取り上げる。能において夢は虚構ではなくもうひとつの日常である。誰もが見るものであり、現実の一部なのだ。夢における救済や死者の回帰というイメージを取り込むことにより、能は単なる宗教劇や奇跡劇から脱した。夢の導入は世阿弥の天才による(p.94)。

さらに、男時・女時という概念から、時・機会への世阿弥の着目を取り上げるところも気に入った。世阿弥は宴会の場の雰囲気や、臨席する人々に合わせて能を舞っていく。時機を捉えること。こうしたことは、世阿弥が貴族やパトロンとの微妙な関係にあったことを示してる。芸術家としての位置は、ハイドンやモーツァルトと同じなのだ(p.165)。有名な「秘すれば花」という言葉もこの文脈で読まれている。世阿弥にとって「花」とは、一年に一度咲くものであり、その珍しさから重宝される。同様に、能役者もそのパトロンである貴族たちに飽きられれば終わりであり、常に新しいものを提示しなければならない。「秘すれば花」とは、みずからの「花」を過剰に出してしまうことを諌めたものであり、いたって現実的なアドバイスである(p.188)。こうした、特に室町時代の能をその社会的な位置に関連付けて読む読み方はとても好ましいものだ。
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