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和辻哲郎『人間の学としての倫理学』

人間の学としての倫理学 (岩波文庫)人間の学としての倫理学 (岩波文庫)
(2007/06/15)
和辻 哲郎

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さすが和辻哲郎と思わせる著作。ハイデガーの影響がかなり強く感じられるが、それで価値が失われるものではない。自らの哲学を提示し、哲学史をそれによって参照するこのスタイルは好きだ。

この本は倫理学を掲げているが、通常思われるような倫理学の著作ではない。すなわち倫理的と呼べるような原理・原則を掲げ、その正当化を行うような。最近はやりのサンデルみたいなものを想像してこの本を読むと、肩透かしに合う。この本が探究しているのは、そもそも人間がなぜ倫理的でありうるのか、という可能性についての問である。和辻は言う。
倫理とは人間共同態の存在根拠として、種々の共同態に実現せられるものである。それは人々の間柄の道であり秩序であって、それあるがゆえに間柄そのものが可能にせられる。(p.17)
倫理学は、人間存在の一つの仕方においてその存在自身を全体的にあらわにしようとするものにほかならぬ。我々は倫理を問うという一つの人間関係を作ることにおいて、かかる人間関係それ自身を根源的に把捉しようとする。(p.189)
我々の倫理学は、人間存在の学として、我々の意味における存在論である。(p.213)
和辻は仏教語に及ぶ豊富な語釈講義によって「倫理」という語の意味を、倫理の可能性へと読み替える。ちょうどハイデガーが、真理概念を真理の可能性概念に読み替えたように。だが語釈はどうでもいい。たとえ「倫理」という語の本来の(何の権利をもってここで「本来=正統」を言うことができよう?)意味が倫理を可能にする、共同態としての人間存在であったとしても、もちろんそれは我々の現在意味する倫理ではないのだから。

和辻が析出する「倫理」概念から浮かび上がるのは、そもそも倫理的でありうる人間存在の姿である。「人間」という語の語釈からも言われるように、それは「人の間」である。人間はその存在からして共同的である(人間の世間性)。だが人間は人として個人で行為する(人間の個人性)。この世間性と個人性という二つの契機の統一が人間存在の構造なのである(p.38,50)。そして我々がもつ存在概念はすべてこのような人間存在の存在概念が本義であり、物に対してその存在を言うことは擬人的転用なのだ、と和辻は言う(p.47)。ここでもハイデガーを思わせる。

このような人間存在の存在概念を取り出した後、アリストテレスやカント、ヘーゲル、フォイエルバッハ、マルクスにおける倫理概念を議論する。特にアリストテレスについては光っている。アリストテレスの倫理学著作といえば『ニコマコス倫理学』だ。ここでの考察は、個々の人間の行為に限られている。和辻はこれを、方法論的制限と捉える。人は社会人politikosでもあるから、その側面も追究されなければならない。これが『政治学』である。EthicaとPoliticaの二つは独立のものではないのだ(p.56f)。それはもちろん、人間が個人で行為しつつも、共同存在だからである。もし社会が個人の個性を滅ぼすなら、個人が社会に従うという関係すらない。したがって、社会において個人の個性が確保されるということは、個人の社会からの独立も含意する。この独立のゆえに、個人の結合によって社会が成立するということが意味を持つ。これがアリストテレスにおける全体主義と個人主義、ethicaとpoliticaの結合である。アリストテレス自身はこれを十分に展開していない、と和辻は評す。(p.67)

続くカントの読解もスリリングである。カントにおいて、可想的性格において人は個別的ではない。人を人とする人性Menschheitは自他の人格の区別がない。人性が自他の区別が無いからこそ、私の人格も、他者の人格もともに究極目的となることができる。ここで把握されているのは人間の全体性である・・と和辻は読む(p.79)。これは実は妙な読解だ。自分はこの箇所を読んで変だな、と思った。この解釈は「決して恣意的でない」(p.83)と和辻は強弁している。カントは18世紀の量的個人主義を採っており、目的を複数として扱っている。この人間の全体性を自覚していないのだ、と(p.80)。

その後のヘーゲルの『人倫の体系』という著作を巡る長々とした読解は、興ざめだった。ここまで詳細にヘーゲルの弁証法をなぞる意味がよく分からない。たしかに『人倫の体系』と『精神現象学』において、人倫という概念には絶対性が与えられている。だが後年の『法哲学』ではそうではない。和辻もそれは認めている(p.147)。だとしたら、それは何を意味するのか?ヘーゲルの議論の初めから『法哲学』のことが頭にあった自分には、よく分からない議論だった。

倫理を可能とする超越論的構造は、まさに我々自身の事柄である。だから、それを対象化して捉える視点は二次的なものとなる。ここで要請されるのが、解釈学的視点となるのは自然な流れだろう。こうしてディルタイが結論に持ち出されるのだ。この流れで和辻は、ようやくハイデガーに対峙する。だが自分にはその評価はどうも納得のいくものではなかった。和辻はこう議論する。人を世界内存在として捉えるハイデガーでは、人の存在には達しても間柄としての存在には達しない(p.220)。存在への問いへの通路として人を世界内存在として取り上げるハイデガーは、物との関わりが中心となっている。現存在の存在内容はどうしても個々の我としての人である(Jemeinigkeit)(p.223)。たしかにハイデガーは他人との共存在について語るが、それは物との関わりの延長上に、物とともに現れるに過ぎない。「あくまでも有の了解を介してのみ他人が出てくると考えたところに、彼の存在論の著しい限界がある。それは有の了解よりもさらに根底的な実践的行為的連関、すなわち人間存在を見のがしてしまう」(p.225)。だが、これは一面的な議論ではないか。物との関わりの延長上にある他者というなら、著者自身の表現についての議論(p.200ff)にも同じことが言えないか。世界内存在における他者の共存在だけをハイデガーの間柄についての議論として取り上げるのはフェアではない。

総じて非常に質の高い議論である。戦前日本の哲学はやはりレベルが高い。西欧哲学を受容しつつ、それを自らのものとして引き受けて思考する態度と能力。恐れ入る。
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