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エリオット・ヴァレンスタイン『精神疾患は脳の病気か?』

精神疾患は脳の病気か?―向精神薬の科学と虚構精神疾患は脳の病気か?―向精神薬の科学と虚構
(2008/02/23)
エリオット S.ヴァレンスタイン

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邦題に惑わされるなかれ。これは精神疾患が脳の病気であることを疑っている本ではない。訳者はそう解釈しているよう(p.319)だが、それは原著者の意向ではないのでは。著者は言う。精神の働きは脳の活動であって、誰もそれを疑ってはいないのである(p.292)。精神疾患は脳の病気<である>。これを疑うことは著者の主張ではない。疑うことと批判することは違うのだ。

精神疾患は脳の病気である。著者が批判を加えているのは、そのメカニズムについてである。精神疾患は、脳のいかなるメカニズムの変調によってもたらされるのか。著者の見るところ、精神医学においてこのメカニズムについての理解は極めてまだ僅かなものである。著者がこの本で検証しようとしていることは、精神疾患の理解に関する現代の精神医学がいかに微力なものであるか、である。さらに言うと本書の大きな意義は、「精神医学の微力さにも関わらず、かくも精神疾患に関する脳のメカニズムがあたかも理解されているかのような社会状況になっているのはなぜか?」という社会学的(あるいは政治的)問いに応えようとしている点である。したがって、著者の主張を反映するのは次の文章となる。
精神医学的問題の元凶の生化学的なバランスのくずれを向精神薬が修正するのだという主張のもとになっている科学的論拠は実に脆弱である。[...]この考えから実に多くの事柄が影響を受ける可能性があるため、証拠や基礎理論をこれまでよりさらに徹底的に検証することが、ぜひ必要となる。(p.4)

繰り返すが、これは決して精神疾患が脳の病気であることを疑っている文章ではない。精神医学はその解明には見かけよりまだ程遠いことを語っているのである。

まず初めに、精神疾患と薬物の関係についての歴史的記述から本書は始まっている。歴史、とはいえほんの100年前くらいに始まったものだ。例えば、1930年代から初期の段階では、メトラゾールやインシュリンが精神疾患の症状緩和に使われてきた(p.21f)。1950年代になってクロルプロマジンが広まるようになり、これが最初の統合失調症治療薬である(p.26ff)。また、リチウムが鎮静剤として有効であることが発見された過程の記述は面白い。リチウムが精神障害に対して有効かもしれないという話は、それこそ5世紀からあったが(p.56)、ケイドが1948年に尿酸リチウムを実験に使ったのは、単にそれが入手しやすく、溶けやすいからだったのだ(p.60)。
こうした初期の向精神薬はすべて、偶然に発見された。その作用のメカニズムや重大な副作用に対する知識がほどんどないまま、これらの薬は容易に利用された。なぜか。それは、精神疾患に有効な治療法がなく、薬の必要性が高かったので、可能性があれば何でも試されたからだった(p.77,79)。そしてこのポイント--精神疾患には発症のメカニズムについて完全な理解がなく、とりあえず有効な薬物を分からないまま投与する傾向がある--は、現代においても継続している。

こうした歴史をもつ精神医学はどういった危うさを含んでいるのか。それは、疾患の原因(あるいは疾患の特定)を治療法から推論する仕方である。この薬が効くから、この病気だろうという推論である。
例えば、セロトニン。ウリーとショウは1954年の論文で統合失調症を脳の代謝異常によるセロトニンの欠乏に結びつけている。これは、自然に発症する精神障害が生化学的異常によって生じる可能性をはっきり述べた最初のものだ(p.105f)。
さらに、ドーパミン。統合失調症はドーパミンが過剰であることに原因があるという仮説がある。抗精神病薬はドーパミン受容体を遮断する。したがって統合失調症の患者ではドーパミン受容体の数が異常であるはずだ、という過程が行われ、そのような結論を導いている人たちもいる。だがそれは根拠が薄い。むしろ抗精神病薬による負のフィードバックで受容体が増えた可能性もあるし、ストレスを受けるとドーパミンの分泌が増えるという結果もある(p.148-152)。統合失調症のドーパミン仮説には矛盾するデータがたくさんあるが、固執する人がいる。それは、仮説がいかに不十分でもそれ以外の説明がないからだ(p.290)。
また、ノリアドレナリン。うつ病の原因はセロトニンかノルアドレナリンの欠乏だと言われるが、脳の神経伝達物質の量の見積もりは間接的証拠からの推定に過ぎないし、そういったノルアドレナリンやセロトニンの代謝産物の異常な濃度はうつ病患者で見つかっていない。(p.133)
総じて、薬物療法や精神障害の生化学説を支持する主張は合理的と思われる議論を提示できていないというより、証拠の客観的評価をもとに議論されていないのである(p.298)。

さらに実例を挙げて詳説されている(p.175-181)。「精神疾患患者の脳を他のものから確実に区別しうるような生化学的、解剖学的、機能的な徴候が見つかっているとよく言われるが、実際はそういうものはない」(p.166)。精神疾患を引き起こす脳内メカニズムについては、解明されているとは言いがたい状況なのである。
なかなか認める人はいないが、精神疾患の生化学的理論はもがき苦しんでいるのが現状である。当初作られた成果学説は、薬の作用や精神疾患の病因を説明するのに不適当であることは明らかだが、とって代わるべきものが見当たらない。[...]神経化学の知識が増えたら、向精神薬の作用メカニズムや精神障害の原因の理解が容易になるのではないかとも考えられたが、実際は、考慮しなくてはいけない要素の数がどんどん増加している。(p.164)


もちろん、精神疾患の物質的メカニズムが理解されないのは、精神疾患が脳内物質の多寡だけで済む問題ではないからである。心理社会的な影響が脳の物理的構造に影響を及ぼすこともある。これについて、本を使った著者の比喩が面白い。異星人が本を発見したとして、その物理的特徴(たいがい長方形であるとか、カバーがついているとか、インクによってシンボルが線状に配置されているとか)をいくら解明しても、それはその本を理解したことにはならないのだ。必要なのは別のレベルの説明であり、つまり、現象ごとにそれが存在するレベルにあった方法論が必要なのである(p.185)。
精神疾患において心理社会的な影響が無視されがちな理由を、著者はこう推測する。精神科医は心理療法士やソーシャル・ワーカーを敵対視することがあるが、彼らのような医師ではない治療者に対して精神科医ができることは、投薬(と電気ショック療法)である。精神科医が向精神薬を重要視するのはこうした事実が影響を及ぼしているかもしれない(p.275,297)。「かもしれない」と言いつつ、著者は実は断定的である。薬物療法、精神療法などの様々な療法についての研究の評価は、薬を処方できる精神科医と処方できない心理療法士やソーシャル・ワーカーの間の縄張り争いを反映している。「これだけは、私は自信をもって言える。」(p.280)

とすると、なぜに精神疾患の脳内メカニズムがあたかも理解されたのごとく語られるのか。脳内物質が意識状態(気分や情動など)に及ぼす影響がかくも軽く語られるのはなぜか。これについて著者が照準を定めるのは、製薬会社である。製薬業界が精神障害や向精神薬の有効性に対する考え方の形成に極めて大きな影響力があることに、多くの人は気づいていない(p.263)。
製薬会社がその研究開発でいかに不利なデータを黙殺したり、広告宣伝であたかも決定的な効果があるように詠ったり、はたまた事実を歪曲したり(p.240)。そんな事例が山のように挙げられている。

だが、著者のこの結論には少しがっかりした。それはこの社会状況の責任を製薬会社に負わせただけだ。「悪いのはやつらだ。やつらさえいなければ、我々は科学的にやっていける」と言っているのではないか。それはどうもすぐに納得できる結論ではない。

たしかに精神疾患について我々は僅かなことしか分かっていない。だいたい、何をもって精神疾患であるかの判断も、他の病気と比べると特異なものだ。精神疾患の判断基準をまとめたDSMは、症状の羅列にすぎない。どの部分がどう悪いから、この病気だ、という基準ではない(精神疾患以外の病気は身体のある部分の変調を特定して病気を判断する)。そもそも、当の疾患の患者が存在するとは言っていない。ただ、その病名の診断基準を満たす症状を持つ人がいるだけである(p.211)。このような判断基準は、きわめて政治的な過程を経て作られている(p.205-216)。

精神医学の現状を著者は、クーンの言う科学革命の前段階になぞらえている。矛盾するデータが次々と現れているが、代わる有力な仮説がないためにそれらは無視されている状況だ(p.160)。そんな状況について知ることのできる貴重な試みと言えるだろう。
「王様はほんとは裸だ」と、誰か言わないのか。うつ病の原因や抗うつ薬がうつ症状を緩和する理由については解明されていないと主張する人はいないのか。(p.135)
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