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盛山和夫『権力』

権力 (社会科学の理論とモデル)権力 (社会科学の理論とモデル)
(2000/07)
盛山 和夫

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この人はやはり鋭い。誰かの意見に流されることはない。自分の支点を持ち、他人の理論を理解する。この力には感嘆させられる。

本書はおおむね20世紀の権力論をたどる。そしてその難点を個人主義的な捉え方に求める。権力とは個人と個人の間に発生するものであり、権力は誰か個人に属するものだ。このような考えを徹底して批判していく。文献の読解だけでなく、ゲーム理論も持ち出す。ゲーム理論において、解は複数ある。そしてそれは個人間のゲームに現れない、ゲームの背景となる事実に依存する。こうして、個人主義的な権力論は排される。
だが、パーソンズ、フーコー、ブルデューらの新しい権力論を賛美して終わるのではない。フーコーの曖昧さ、ブルデューの「モダンさ」に対する批判は激しい。

とはいえ、著者自体が向かう先は私にはよく分からない。まず、フーコーの権力としての知への批判が不明だ。著者は、フーコーとその信奉者たちは自然人としての「身体」が文明的な「主体的個人」へと作り上げられると捉えている、とする。だがそのような「身体」という「リアリティ」は観念図式、社会内部の個人の一次理論の外部にあるものだ、と(p.168)。しかしどんな意味であれ、観念図式の「外部」を指定しないことには、いかして観念図式の成立にまつわる権力を分析するのだろうか。この問題に(信奉者や亜流はともかく)フーコーが無感覚だったとはとても思えない。
さらに、著者はどこへ向かうのだろう。著者は、権力を集合体・個人の行為の決定に携わる「社会的しくみ」と概念化する。そして、このしくみを明らかにすることが権力理論における探求だという(p.186)。これは何をすることなのか。この社会的しくみに与するものと、そうでないものを弁別することではないのか。しかし、著者によれば「権力とは何かと同定すること」は疑似問題なのである。この社会的しくみを、権力と呼ぶかどうかはどうでもよいことなのだと述べる。

だとすると、著者の探求したいことは権力ではない、ということになる。著者の探求したい社会的現実が「権力」と呼ばれようが呼ばれ無かろうが、著者の関心外なのだ。これはまさに著者の言う「バベルの塔」の状態だ。しかし、著者は権力について極めて実り豊かな分析を提供したではないか。相互的権力、超越的権力、素成的権力という区別は、特にそうだ。

いかに様々な権力論があれど、それらが「権力」論と認められてきたのだ。それは、それらが群盲象を撫でるようであれ、何らかの形で権力の概念分析であったからだ。著者はそれを放棄するのだろうか。だとすれば、少なくともそれは私の知りたい試みではない。
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