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ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『千のプラトー(上)』

千のプラトー 上 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)千のプラトー 上 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)
(2010/09/03)
ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ 他

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いまだほとんど理解されることのない、偉大なる奇書。この本は読んでも分からないが、それは分かろうとするからである。次の言葉はまずもって踏まえるべきだ。
本の言おうとすることを、意味されるものであれ意味するものであれ、決して問うべきではないし、本に何か理解すべきことを探すべきではない。本が何によって機能しているか、何との接続によって強度を通しあるいは通さないか、どのような多様体のうちにみずからの多様体を導きいれ、そして変貌させるか、その本自身は、いかなる器官なき身体とともに、自己の器官なき身体を収束させるか、といったことを問うべきなのだ。本というものは外によってしか、そして外においてしか存在しない。(p.17)

こんな素晴らしい言葉があるだろうか。ある人はそれを、小説を読むような読み方だという。そうかもしれない。むしろ、音楽を聴くように読むのだ。音楽を聴くとき、それが何を「意味している」か、その意味作用について要求するだろうか。標題音楽とはその試みだったかもしれない。だが、それは挫折したではないか。音楽とは何よりも領土化されることなく空間を振動するものであり、身体はそれに応じるのだ。リズム(躍動)であれ、ハーモニー(調和)であれ。それは「理解」や「意味」ではない。

DG、あるいはn個の性がここで示すのは、数々の領土化とそれに対する逃走線である。我々を支配する樹木状の思考の様々。そしてそれを逃れていくリゾーム。正統性や理論、主体のうちに回収されていく強度から溢れるもの。リゾームは一つの反系譜なのだ(p.31)。

我々(器官なき身体)はかくも領土化の動きに拘束されている。我々を拘束する三つの地層、すなわち有機体、意味性、主体化(p.327)。器官は有機体へと組織化されてしまっている(フロイトによればリビドーは最終的にファルスへ向かう)。有機体こそ、身体の敵である(p.325)。身体には樹木が埋めこまれているのだ(p.47)。狂人と扱われないためには、言表はいつも意味しなければならない。そして主体、主体。大人になること、自己実現・・・。器官なき身体については、珍しく定義のように語られている(p.158)。器官なき身体の上で躍動する強度たちの多様体、器官なき身体を構成する機械状のアレンジメント、抽象機械。

多くのリゾームがあらゆる分野において示されている。だがもっとも取っ付き易いのはやはり、精神分析に関わるものだろう。前著『アンチ・オイディプス』の読者にはおなじみのものだ。<狼男>に対して執拗にそれをパパ・ママに領土化するフロイトの執念。この分析は痛快だ。必死に象徴を探すフロイトの手を逃れていく狼の「群れ」。こうして顕にされる、狼の群れがなすアレンジメントは実に清々しいものである。

また、同様にマゾヒストの評価も爽快だ。マゾヒストにとって、苦痛が快楽なのではない。それは、快楽と欲望の間の結びつきを断つ試みである。快楽はそれが得られると、そこで自足してしまう。欲望にそれ固有の内在的な喜びを導き出すには、快楽は延期されなければならない。こうして「マゾヒストは、一つの器官なき身体を作り上げ、欲望の存立平面を抽出するための手段として、苦痛を用いるのだ」(p.318)。快楽は自己を取り戻す唯一方法であり、再領土化である。だがしても、自我である必要がどれだけあるのだろうか?(p.321)

生物学に引かれる逃走線もある。各生物種にはそれ固有の本質があると考えたキュヴィエから、種の間の進化関係、種たちがなす多様体へ至るダーウィンの思考を引く(p.110)。さらに容易に予想されるように、確かに遺伝子浮動(ドリフト)は生物種という領土化を撹乱する逃走線である。生物種という地層からの脱領土化をもたらすウィルスやプラスミド。まさにここで問題となるのは、<動物になること>である(p.120)。

だが何よりも本書の中核をなすのは記号と言語について。言語学における樹木状の思考(まさにチョムスキーの構造分析は樹木treeである)。これを切り開くために、プラグマティックが置かれている。個人的な言表などない。言語行為はつねに、集団的な動作主の産物である。(ただしこの集団的な動作主は機械状アレンジメントの多様体であって、民族や社会ではない(p.88)。)言語の基本活動は、指令語(命令の言葉)に置かれる。つまり、あの「石版!」である。言語は情報や意味をもたらすよりも、まずもって命令である(p.165)。「言語は言語学の事柄である以前に、政治学の事柄なのである」(p.287)。こうしてオースティンの言語行為論を通じて、言語における内的なプラグマティックが示され、言語外のものとの集団的アレンジメントが示される(p.168f,173,177,192)。

「標準語」という概念を揺るがす、俗語や方言についての考察も面白い。マイナー言語を巡る、チョムスキーとラボヴの対比(p.215)。言語における共通要素に対して連続変化を作用させ、俗語、隠語、方言などを考慮していくこと。平均律に対する十二音技法だ。「われわれの言いたいことはつまり、普遍化された半音階法ということである。」(p.204)

だがそれで科学としての言語学ができるだろうか。もちろん、できない。科学理論とは、創造的な逃走線、肯定的な脱領土化をせき止め、点的な体系に従わせるのだ。逃走線は地層に回収される。存立平面の図表diagramに対立する地層のprogram(p.294f)。ここで言われる図表の概念が面白い。それはパースの記号論に結び付けられている。内容に直接結びつき、内容を領土化している指標index。内容と直接ではなく類似性によって結びつき、元ある地層からずらして再領土化する図像icon。原則として内容との結びつきを持たず恣意的であるが、それでもなお結局は何かを意味するものとして回収される、否定的・相対的な脱領土化としての象徴symbol。図表diagramはこれらのいずれでもない。それは絶対的な脱領土化であり、抽象機械なのだ(p.291)。

この本は読んでも分からない。それは読むからだ。そうではなく、一緒に踊ることが重要なのである。
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