Entries

山田昌弘『希望格差社会』

希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く
(2004/11)
山田 昌弘

商品詳細を見る


いまだにこの日本に希望を持つ人間としても、この本には納得がいかない。一見、統計などのデータに基づいた「科学的」な本に見えるが、それは外見である。著者の主張を導く重要なポイントではデータが出てこない。代わりに印象的なエピソードが述べられ、読者を導く。これはとても危険である。

典型例を挙げる。著者は「日本社会は、1990年代半ばまでは、犯罪率が極めて低かったのである」(p.15)とデータの提示もなく書いている。そうだろうか。『警察白書』『犯罪白書』等の過去データを見れば、単位人口辺りの犯罪件数はずっと減り続けている。特に殺人、強盗、強姦、暴行、傷害等、凶暴犯・粗暴犯は昔のほうがずっと多い。窃盗については増えてきている。また、著者はこう書く。フリーターの若者が増大しているが、彼らは不安定な雇用によって社会から疎外されたように感じている。だから犯罪が増える。大きな事件を起こしたのは無職の人たちだと(p.127f)。これは完全に印象論。昔からそういう事件を起こすのは経済的に不安定な人たちである。昔だって動機も不可解としか言いようのない事件は大量にあったのだ。

こういう類の本にはよくあるが、過去を美化するのである。高度成長期を黄金時代として捉える(p.72)のだ。著者は、高度成長期をこう捉える。高度経済成長期は予測可能性が高く、安心な社会だった。高度成長による労働力不足から、いったん正社員から外れても再就職などにより再出発が容易だった(p.36,59)、と。しかしそうした社会が犯罪率の高さに示されるようにいかに不安定であったか、著者は何も述べない。それは現代の不安定な社会との対比のために持ち出された幻想の過去(一度も現前したことのない過去)であるからだ。

こうして、その時代を経験していない自分のような世代にはどうも理解出来ないような「黄金時代」が描かれている。傑作なのはこれだ。現代より婚姻率が高いことの原因としてこう書かれている。「交際範囲が狭かったため、出会った人なら誰でも素敵に見えたのである。」(p.83)失笑ではなく爆笑してしまった。

もちろん、高度成長期にいい側面があったのは確かである。焼け野原から始まった戦後日本は、経済が拡張する一方だったから非効率な社会でも機能したのである。著者は高度成長期を効率的な社会と描写するが、なぜだろうか。各人がその能力によって評価されず、能力のない50代を課長代理などの名ばかり管理職に置き、年齢に横並びした高給を払っていた、年功序列という非効率な人事システムのどこが効率的なのか。

また、こうした社会はある人々の犠牲のもとに成立していたのだ。昇進がなく賃金が低い周縁労働力は、成人男性以外の、未婚や既婚の女性、地方の農家からの出稼ぎ、学生などによって担われていた。家族生活を支える責任がない人たちなので、社会を不安定化することがなかった(p.80)。これらの人たちは、生活水準が徐々に向上し、いつか追いつけるという夢のもとで発言を奪われていた。著者が黄金時代として描く社会の抑圧の構造に、目を向けなければならない。

教育については見るものはある。戦後日本の教育システムの特徴は、個人の能力に応じて徐々に「あきらめさせる」システムだった(p.89,181)。一億総中流、大学全入となって、それまである種のステイタスだった中流、大学生というものを誰もが求めるようになった。しかしそれは他との差異によって成り立つステイタスだから、みんなが求めることはできないのだ。

現代は確かに、雇用も以前より不安定である。人々が漠然と抱く不安も大きいかもしれない。著者はそれを、「リスクか、二極化は、二一世紀に生活している我々に与えられた環境条件といってもよいものなのだ」(p.21)と客観視してしまう。これがこの本が抱える難点である。客観的事実と言ってしまうことは既存の抑圧構造を覆い隠す。著者が話すのはほとんどすべて若者の話である。実際それは著者が一瞬だけ述べるように、オールドエコノミー型の雇用で維持される中高年と、ニューエコノミーの進行によって不安定化する若者たちの対立なのである(p.119)。すなわち、多額の退職金と年金で「逃げきり」を待つ高齢者層、終身雇用と年功序列のもと能力もないのに安定している高年層。これらを支え、これらに抑圧されているのが若年層なのである。

つまり、この問題は外的環境--ニューエコノミーだとかグローバリゼーションとか--であるよりも、まずもって世代間格差なのではないか。例えば著者は、大学院博士課程を出ても大学教員になれない若者たちをかわいそうだと嘆くが、それはニューエコノミーとかの話ではない。教授たちが60歳を超えても雇用にしがみつき、私立大学がそうした教授を箔をつけるために高給で再雇用し、かくして若者を非常勤講師で雇ってコストバランスを取っているのである。そうした構造にも触れず、単に若者の惨状のみを訴えるのは、権力構造の隠蔽である。

著者は言う。希望格差はなによりも心理的な問題だと(p.15)。確かに、報道を規制して若者の不安を煽るのをやめればいいという問題ではない。意識が変わったって現実は変わらないのだ(p.192)。しかし本書のような、事実に対する一面的な見方を「科学的」色合いを持って「学問的・客観的真理」と化すのは暴力的な行為である。それは実際に社会に働いている権力や抑圧の構造を隠蔽する。この本は保守層の政治的主張に都合よく利用されたが、それは当たり前だ。学問の名において語るというのは重い行為である。よく踏まえていただきたい。
スポンサーサイト
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://exphenomenologist.blog100.fc2.com/tb.php/337-edf82e40

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する