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末木文美士『仏典をよむ』

仏典をよむ―死からはじまる仏教史仏典をよむ―死からはじまる仏教史
(2009/04)
末木 文美士

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面白い本だ。中国および日本の古典的な仏典を順次取り上げて、その解説を試みたもの。だが、当該の仏典を経典とする宗派の解釈には囚われないし、よくある仏教史での理解にもこだわらない。著者の狙いは「仏典を従来の固定観念から解き放ち、今日に生きる思想書として」(p.2)読むことだ。

もちろん取り上げられる仏典は現代から遠く離れた時代のものであるから、そのまま現代で通用するわけではない。だが、様々な宗派的解釈から離れて、仏典そのものを照らそうとする試みはとても好ましいものだ。例えば、中国の古典的仏典から著者が取り出すのは一貫して、絶対的他者としての死に仏教はなによりも関わるという論点(p.30,50,75,145)。原始仏教の後、仏をめぐるさまざまな説話が発展していく。それらの説話では、悟る以前の状態は菩薩と言われるようになる。菩薩という考えに顕著なのは、利他や布施などの他者に対する行為の評価である。原始仏教の修行は基本的に個人的なものだが、菩薩の修行(六波羅蜜)は他者を前提としている(p.37f)。

あるいは、日本の仏教の成立における最澄の役割への注目にも興味を持った。日本の仏教は一方で世俗を超越しながら、国家の中枢原理として世俗の中に入り込んでいく。そこには世俗の人々を救済してこそ本当の菩薩だ、という理想がある。この理想と現実のバランスをうまく取っていこうとしたのが最澄なのだ。(p.186f)

既存の解釈から脱しようとする読みには、以下のようなものがある。

例えば禅問答によく見られる、明らかに矛盾した言い方。鈴木大拙が言う「即非の論理」だが、著者はこう捉える。禅における「即非の論理」は、むしろ帰謬法に近いもの。それは部派による原始仏教の教理の固定化に対して、もう一度原始仏教に戻ろうとする運動だ、と。(p.97)

親鸞における、同時代の密教とのつながりへの注意も目を引く。親鸞は、現世は煩悩のままの状態であるが、信を得れば死後に仏となるという。これは死後成仏という形での即身成仏説と構造が同じだ(p.235f)。浄土真宗と真言宗というまったく違う宗派なので、そのつながりは見えにくい。また、同じく親鸞においては悪人正機説を大きく取り上げることへの警戒が述べられている。親鸞の悪に対する基本的な考えは、どんなに弥陀の誓願に身を任せても悪事をなしてはならないというものであって、『歎異抄』の説く悪人正機説は親鸞の思想とは逆方向を向いている。『歎異抄』をそのまま親鸞の考えと認めて良いかどうかは難しい、と著者は記す(p.240ff)。

道元についてもその深遠な思想に加え、日常生活への道元の注記に目を配っている。道元にはいかに正しい仏教の道を伝えたらいいかという思いがある。だから特に生活のこまごましたところに指摘が及んでいる。『正法眼蔵』には爪の切り方、顔の洗い方などの言及もあるのだ(p.258f)。また、後年の道元後年の道元はその原理主義的な仏教をさらに推し進めていったが、著者はこれを江戸時代になって初めて評価が始まるような、原始仏教への回帰を先取りしたものだという(p.266f)。

仏典についての宗派内での蓄積や、仏教史での他の解釈を知っていれば、原典に直接当たり別の読みを提示することの意義がより分かるだろう。自分のような無学の徒よりはそうした人に大きな価値のある本かもしれない。


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