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ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス『存在の一義性』

存在の一義性―定本・ペトルス・ロンバルドゥス命題註解 (中世哲学叢書)存在の一義性―定本・ペトルス・ロンバルドゥス命題註解 (中世哲学叢書)
(1989/03)
ヨハネス ドゥンス・スコトゥス

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トマス・アクィナスと並んで13世紀スコラ哲学を代表するドゥンス・スコトゥスの主著。まさにスコラ哲学の真髄に当たる本なので、スコラ哲学で使われた概念群や、アリストテレス・アウグスティヌス・ポルフュリオスなどの典拠に詳しくないと本当には分からない本。自分のような門外漢には歯が立たない箇所も多いが、面白い箇所もある。

内包的には神よりも何らかの被造物への愛のほうが強度なことがあるかもしれない。しかし地上にあって(nunc)愛するいかなる対象も神ほどに浄福を与えるものはない(p.69)

自然的生物である我々人間にとって、神はどうやって認識されるのか。我々の知性を触発して認識へと誘うのは、可感的偶有性しかない(p.155f)のに。スコトゥスの論敵であるガンのヘンリクスによれば、我々は神の存在を被造物の存在との類比によって知る。神の存在と被造物の存在は別種の概念であり、それらは帰属的類比によってそう把握されているだけだ。実際は、被造物の知性には神を認識する(神の単純概念を得る)ことは不可能である(p.29f)。存在概念の類比的統一。

だがそうすると、我々は神について確たる認識を持つことはできない。それは類比によるものでしかない。スコトゥスにとってこれは認められる結論ではない。こうしてスコトゥスは存在の一義性を主張する。神の存在もまた<存在>として把握されている以上、<存在>概念としては一義的であると考えられる(p.40)。被造物は神を含意することなどできないのだから、被造物の存在から神の存在へと類比することはできない(p.47)。神の本質規定は被造物とは別種だと考えてしまうなら、被造物の意味規定ratioから神についての知見が得られるはずがない(p.53f)。類比的統一によって一なるものが確知できるのは、二つのものを二つとして確知しているときだけである。つまり、二つのものは知性にとって「一つ」として判断されず、互いに区別されたものとして把握されている(p.272)。つまり、「総ての比較は、何らかの点で一義的なものにおいて生じるのである。」(p.284)

とはいえ、神の存在と被造物の存在の間に何らかの違いがあることは明白である。だが存在は超越概念transcendentaliaであって、類概念ではない。神の存在/被造物の存在(無限の存在/有限の存在)という述定によって、存在概念が限定されているわけではない。スコトゥスはこの存在の一義性における区別を、対象の把握観点の違い、内包的強度の違いと説明している(p.69,75,222f)。この論点は独創的なもので容易にはつかみにくい。訳者も幾何学的なモティーフを用いて翻案している(p.71)が、多くの思考の源である。

さて存在概念が一義的であるとはいえ、この世の自然的知性である我々にとって、神の存在の直接的認識が不可能なことは変わりない。この世にある限りの我々の知性にとって、神、<存在>(ens)は適合的に(十全に?)adaquate認識されるものではない(p.134f)。スコトゥスは<存在>を、あらゆる概念は限定概念と被限定概念に分解していけば、純然たる限定概念である最終種差と、純然たる被限定概念である<存在>に至る(p.144)と位置づける。ここで最終種差はそれ以外のもの(類・種など)に本質的に含まれることにより、<存在>に潜在的に含まれている。最終種差以外の類、種、個体、本質要素、非造的<存在>は<存在>を本体述語として含む(共通普遍性)。ゆえに存在は共通普遍性または潜在力において第一位を占めるから、知性の第一の対象であると言っていい(p.151f,164f)。

ただし存在を第一の適合的対象とするこの知性は、知性そのものである。われわれの知性に第一の対象として適合するのは<存在>しかない。しかし、この世を境涯(status)とする知性には、触発の原因となるものは感覚事物の本質しかない。それを超える<存在>そのものが知性の自然的認識の対象とならないのはそのためである。知性そのものとこの世の境涯における知性が区別されている。(p.195f)


自分が読めた筋はこのくらいだった。存在概念の類比的統一を批判するスコトゥスは、あくまで神の存在が可能である(というより存在が一義的なのだから、神の存在が不確実であることは、被造的存在を含めあらゆる認識が不確実であることを意味する)根拠としての、学的認識(あるいは真なる知識)の根拠を求めている。スコトゥスは類比的認識は能動知性でも可能知性でも論弁的認識でもないとしている(p.46)が、では類比的認識とは何かはよく分からない。想像力による神への道は、ここでは閉ざされているのだろうか。
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