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網野善彦『日本社会の歴史(上)』

日本社会の歴史〈上〉 (岩波新書)日本社会の歴史〈上〉 (岩波新書)
(1997/04/21)
網野 善彦

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通史。この人の歴史の見方にはもちろん賛成しかねる人も多くいるだろうが、自分はかなり好きだ。その当時の政権、行政機構については歴史的資料は数多く残っていて、歴史の叙述はいきおいそうした国家政体中心になってしまいがちだ。だが歴史のなかにはそうした国家の管理を逃れる様々な人がいたのであり、また地域的にも様々な特色がある。そうした多様性はあまり記録には残らない(なぜなら記録するということこそがコード化することであって、多様性を否定することなのだから)。

むしろそうした名もなき多様性に目を配る著者の姿勢は、共感できるものである。つまり、超コード化する硬直した切片の傍らに走る柔軟な切片への配慮であって、その向こうに遊牧民的な逃走線が見える・・・とでも言いたくなる。

本書が語るのはおよそ9~10世紀までの「日本」である。ここで「日本」というのはもちろん、この時代はまさに「日本国」が成立してくる過程であって、それ以前に日本などないからだ。現在の「日本国」の国境をもとにして、それ以前の文化を考えてはならない(p.11)。そもそも縄文時代~古墳時代において、東国と西国の違いは大きい。日本列島の東部は果実の採取や狩猟・漁撈が高度に発展しており、西方からの稲作を中心とする弥生文化を受け入れることに抵抗を見せた。こうして弥生前期の200年ほどは東西で異なる文化が続くことになり、その地域の特色の違いが拡大した(p.29)。それは古墳期でも違いを見せる。(p.48f)

日本国と呼べるものはやがて畿内を中心に成立してくるが、関東・東北などの東国、南方の隼人はそうそう簡単に畿内政権に屈したわけではない。また、九州北部の勢力は畿内との結びつきはもとより、朝鮮半島と強く結びついていた。663年の白村江の敗戦の後、天智天皇は唐と新羅の襲来に対する警備を固めるために各地に山城を築いた。特に667年に対馬の金田に城を築いた意義は大きく、朝鮮海峡を「倭国」と新羅の国境とみる意識はここに始まる(p.101f)。すなわち「日本国」の西側国境は、白村江の戦いからの退却線である。

また東国においても。658年、阿倍比羅夫が東北に派遣され、東北の首長たちの多くは比羅夫の軍勢の前に一応服属した(p.99)。こうして徐々に畿内政権は東国に浸透していくが、壬申の乱が転換点となる。壬申の乱の672年、近江の大友に対抗しようとした吉野の大海人とは東国の首長たちを組織して対抗した。このとき初めて東国は自発的に大王の支配下になり、畿内政権の東国支配はこのときでようやく安定的になった。(p.104)

後半は律令国家の成立と、その支配が9世紀にかけて崩れていくさまを描いている。そもそも、律令国家は本気で水田を基本とした国制を社会に貫徹しようとした。そのため、養蚕、焼畑など水田以外で生活している人々、遍歴する交易民、遊行する宗教者、海民などの多様な平民の社会生活を抑圧・強制した(p.132f,164f)。平民レベルの生活とは離れたところで、唐から政治システムを輸入して天下り的に設定したのだから、そこにはそもそも無理がある。政府の再三の禁圧令にもかかわらず、課税を逃れる平民の逃亡・浮遊は後を立たなかった。これに対して藤原不比等が主導する政府は715年、郷里制を施行して平民の掌握をさらに徹底しようとした。そして717年には浮浪人を保護する貴族・仏教界の統制を強化したのだった(p.140f)。こうした中で740年、藤原広嗣の乱、つまりついに藤原氏のなかからも反乱者が出た。光明皇后が諸国に国分寺を建立したのは翌741年であり、これは国家の動揺を仏教の力によって鎮めようとするものであり、鎮護国家の宗教として仏教は、現実政治に大きな力を持つようになった(p.147)。

一層の支配強化、あるいは懐柔策、ときには仏教をも助けとして維持してきた律令制だが、9世紀後半、官司や国司・郡司はそれぞれに独自な諸司田を持つようになり、自立化を進めていった。これに対して天皇家は蔵人所、検非違使などを中心として官司の再統合を図ったが、9世紀後半になるにつれて「日本国の国家機構は財政、軍事など、あらゆる面で解体の危機に直面することになった」(p.196f,203f)のである。「実際には動きのある平民たちの生きた生活を、硬い制度の枠の中に入れようとした無理がはっきりとここにあらわれてきたのであり、国家の財政は否応なしに困難になっていったのである。」(p.164f)

上巻はここまで。これ以降の記述も面白そうだ。
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