Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://exphenomenologist.blog100.fc2.com/tb.php/364-d3f22a0e

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

八木雄二『中世哲学への招待』

中世哲学への招待―「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために (平凡社新書)中世哲学への招待―「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために (平凡社新書)
(2000/12)
八木 雄二

商品詳細を見る



amazonに読書記掲載。
-----------------
14世紀スコットランドのスコラ哲学者、ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの思考を巡って書かれた本だが、それは表向きだ。この本は同時に、キリスト教哲学、そして広くはヨーロッパ思想の根本的な思想動向を分かりやすく解説している。著者はヨーロッパ人には思想の前提であって特に説明を要しない事柄についても説明すると述べている(p.10,14)が、確かにそれは果たされている。(ただし時折出てくる物理学の概念を使った話は、だいぶ的はずれに感じる。真に受けないように。)

例えば、原罪を洗い流して個人の意志による神との関係を開くという洗礼の意味(p.31ff)。自由な任意の団体として始まったヨーロッパの大学(p.36f)。民衆信仰とキリスト教信仰の妥協点として生まれた守護聖人という考え(p.57)。ボランティアとは何か、ということから説き起こされる、自由と権利についての西欧の理解と日本の理解の違い(p.154ff)。ヨーロッパ文化を理解するその基礎となる事柄について、丁寧な解説がなされている。

しかし何よりもやはり、「なぜキリスト教が哲学の問題になるのか?」ということを巡って極めてよく書けている。日本という、キリスト教哲学とは離れた文脈にいる人間がここまで咀嚼して提示できるのは、驚きである。例えば、神の存在論的証明はなぜ必要なのだろうか。仏教で仏の存在論的証明を行う動機はない。著者によれば、キリスト教が神の存在論的証明を必要としたのは、それが教会という形で社会的紐帯の拠り所だったからだ。神の存在論的証明は、個人の信仰の拠り所よりも、人々の社会的紐帯の拠り所(=教会)を権威・根拠づけるものとして求められたのである(p.60f,99)。(だが仏教でも「鎮護国家」という考えがあることからすれば、この説明には多少の疑問が残る。日本において個人の心の拠り所は地域宗教としての神道であって、仏教はむしろ国家の拠り所となっていた。最澄の三一権実諍論はまさに、仏教の社会的紐帯としての正当性を巡るものだ。だがそこには仏の存在論的証明は確かにない。)

こうしてキリスト教は、なによりも客観性を重んじることになった。つまり、神の存在証明は客観的科学であろうとした。宗教と科学が対立するのは、ヨーロッパにおいて宗教が客観的であろうとするからである。それはヨーロッパにローカルな事態であって、一般的な事柄ではない(p.61)。また悪の問題は神の意志の問題であり、意志だから偶然であり、客観性を持たない。ゆえにそれは科学的な(スコラ哲学的な)問題ではないのだ(p.93f)。

こうしたスコラ哲学の特徴付けと並んで、もっとも素晴らしい記述は三位一体論に見られる。スコラ哲学において三位一体論とは認識論だった。父/子/精霊はそれぞれ、記憶(意識)/知識/愛として考えられるが、プラトン・アリストテレスの伝統を経てこの図式がどう成立してくるかを述べた箇所(p.126-152)は、極めて素晴らしいものである。この箇所はとても貴重な記述と言えるだろう。必読である。

その他にも、意志と理性の関わりについても着目すべき記述がある。ドゥンス・スコトゥスまでの伝統において、自由とは理性によって何が正しいのかを知り、そのように行動することだった。ここでは意志は理性に従属している。ところがスコトゥス、そしてフランシスコ会はむしろ、意志の独立性を認め、自由であるには意志だけで十分であると考える。理性は何が正しいのかをもたらすだろうが、それに従うかどうかは意志の自由である(拒絶の可能性)。こうして現代的な「意志」の概念(と言葉そのもの)が中世で初めて生まれる(p.165-177)。ところが意志が理性から独立してしまうなら、意志の自由はその根拠を失ってしまう。スコトゥスの議論ではその穴を埋めるのがキリスト教の信仰だった。だがその信仰が消えたとき、近代的な自我の考え、実存的な不安の議論に道が開かれる(p.179,193ff)。

なかには中世哲学の意義を強調しようとするあまり、少し話が大きすぎると感じる箇所もあった。個体化原理と個人の尊厳の話(p.119)、キリスト教/仏教という対を空間的/時間的と割り振り(p.211)、スコトゥスを東洋的思考につなげようとする箇所(p.239)などである。

そもそも考えれば、デカルトのような貴族に囲われた職業的哲学者よりも、フランシスコ会という強大な修道会を通じて広まったスコトゥスの議論のほうが、一般大衆、深層の文化には影響力を持っている(p.180f)のだ。中世と近代の間の、「言いようもなく悲しく見える」(p.242)切断面を超えて受け継がれている文化の根底について、その一面を知ることのできる貴重な本である。

現代人から見れば中世の哲学は、神についてわけのわからないことばかり言っている、という印象を受けるが、もしも中世の哲学者が近代の哲学的状況を見るならば、やはりそこには何らかの「偏向」を見出すだろうし、そのことは、現代についても同じことだろう。したがって、中世に対しても、謙虚に学ぶことがまず必要なのであって、現代的関心から中世を研究することは、現代中心主義の渦に巻き込まれるだけである。現代を誇るだけの狭量な精神に時代を独占させないためには、「中世」という異なる時代風景を眺める必要がある。(p.73f)
スポンサーサイト
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://exphenomenologist.blog100.fc2.com/tb.php/364-d3f22a0e

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。