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ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『千のプラトー 中』

千のプラトー 中 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)千のプラトー 中 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)
(2010/10/05)
ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ 他

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生成変化をとげるということは、何かを、あるいは誰かを模倣することではないし、何かや誰かに同一化していくことでもないのだ。形式的関係を比例配分するのとも違う。この、類似の二大形象は、いずれも生成変化には適合しない。つまり生成変化は、主体の模倣でもなければ、形式の比例関係でもないのだ。生成変化とは、みずからが保持する形式、みずからがそれであるところの主体、みずからが所有する器官、またはみずからが果たす機能をもとにして、そこから微粒子を抽出し、抽出した微粒子のあいだに運動と静止、速さと遅さの関係を確立することなのである。そうした関係は、自分がいま<なろう>としているものに最も近いものであり、これによってこそ生成変化が達成されるのである。(p.234)


生成変化、生の線を巡る思考/試行。非意味的なもの、非主体的な物、顔をもたないものの地帯への肯定的脱領土化(p.52)を様々なテーマで描いていく。これらの線は複雑にからみあっている。人間すらそもそも、三つの線(あるいは線それ自体が多数だから、線の塊)で構成されている。硬直したモル状の、習慣の線(<対>)。量子状の逃走線(<地下潜行者>)。そしてその間を走る、柔軟な分子状の線(<分身>)。これらは内在しあい、見分けるのも困難なのだ(p.85-94,125ff)。逃走線が描かれる様々なテーマのうち、ファシズム、動物と子供、音楽といったテーマに特に強い感銘を受けつつ読んだ。

ファシズムというよりそもそも権力には、流れの量子をできるかぎり線の切片に変換する以外に存在理由はない。だから権力はつねに、超コード化の線と、量子を持つ線の間で生まれるミクロ組成である(p.131)。逃走線はつねに、こうした権力の超コード化を逃れて脱領土化をもたらす。しかし、逃走線自体がもつ危険というものがある。逃走線は他の線に連結されたときに破壊、純然たる滅亡、滅亡の情念に変わるのだ(これは死の欲動ではない。欲望の中に内部などない)。こうして逃走線は戦争機械を生み出す。逃走線が突然変異を起こす能力を失ったとき、残された唯一の目的が戦争となる。逃走線は単なる冷酷な破滅の線に変わる。戦争とは国家外交の最終手段なのではない。戦争機械は国家権力とは対立するものだ。
国家は、そうした戦争機械を何とかコントロールし、部分的に取り込もうと躍起になってきた。ではファシズムとは?それは、国家が戦争機械をそのまま取り込んでしまったものではない。逆だ。驚くべきことに、ファシズムとは戦争機械が国家を奪取してしまったものなのである。(p.92,139-144)
逃走線が逆転し、破滅の線に変わっていたからこそ、ファシズムのあらゆる分子状焦点が突き動かされ、国家装置の中で共振するのではなく、むしろ戦争機械の中で相互に作用し合うようになったのである。もはや戦争以外に目的をもたない戦争機械。破壊を中止するくらいなら、むしろ自分に仕える者すべてを滅亡させる戦争機械。この危険に比べるなら、他の線にそなわった危険など、どれもとるに足りないものである。(p.143f)

この点でファシズムと全体主義国家は区別されなければならない。全体主義国家はモル状の硬直した切片、中央集権化であり、マクロ政治学の尺度において働く。ところがファシズムは分子状の運動であり、群集のミクロ政治学的な力能だ。(p.108f)

動物と子供について書けば、ここで出てくる精神分析への批判はいつもながら納得が行く。精神分析は動物への生成変化を理解しようとしなかった。動物が出てくると、それは欲動の代理や両親の代理表象として解釈された。生成変化は欲動そのものであり、決して代理などではないのだ。動物への生成変化としてマゾヒズムに位置が与えられる(p.205ff)。これは上巻でも出てきたおなじみのテーマだ。子供は、器官なき身体を駆け巡る逃走線とされている。子供が生成変化するのではなく、子供への生成変化が問題なのである(p.243ff)。
ただ、動物や子供への生成変化の文脈で出てくる麻薬の論じ方は気になる。麻薬で知覚を変化させることにより、知覚しえないものを知覚すること(p.254-264)とされるが、このテーマはフロイトのLSD論とどのくらい違うのか。つねに新しい考え方を提示していくこの本にしては、ちょっと違和感を覚える箇所だった。

音楽とリトルネロについては、やはりかなり難しい。「音楽とは、リトルネロを脱領土化することによって成り立つ活発な創造の行為なのだ」(p.293)。音楽の最終目標とは脱領土化したリトルネロを生み出すこと、そしてそれらを宇宙に解き放つことであるとも語られる(p.401)。この環境とリズムから領土が成立するという過程(p.325-344)はかなり重要なものだろうが、どうにもまだ歯が立たないところだ。芸術は境界線を引き、署名をすることにより領土をもたらす(p.329ff)という芸術観は、ハイデガーの芸術論を裏返しにしているようにも見えた。
音楽についてなぜクラシック音楽についてばかり語るのだろうか?1970年代、ロックやジャズは膨大な量の逃走線と、レコード会社による再領土化を繰り返していた。その濃密さはクラシック音楽よりもはるかに凄まじいものではなかっただろうか。一言だけ、ポップスは至る所に新しいタイプの民衆を育てている(p.391)と語っている。そのとおり。音楽がもつ脱領域化の力は絵画よりずっと大きいのであって、音楽が集団を操る力は絵画より大きい(p.298)。国家、階級、逃走線。多くの活動はクラシック音楽外にあったのではないのか。

音楽との関連で言えば、シンセサイザーとしての哲学というモチーフはなかなか面白い。自我は超越論的シンセサイザー(=超越論的総合を行うもの)なのである。だが目指すものは、こうした既存の形相に素材をはめ込むシンセサイザーではない。それではいつまでもピアノ、オルガン、ギターなどの擬似音でしかないではないか。シンセサイザーのシンセサイザーたる所以は、むしろそうした素材を他の要素との新しい関係に持ち込むことだ。シンセサイザーによって、我々はいかに新しい音に出会ったことか(クラシック音楽に傾注して語ることの問題点はここにもある。クラシック音楽はなぜあんなにシンセサイザーを取り込めないのだろうか)。哲学もかくあらねばならない。
哲学も総合判断であることをやめ、複数の思考を総合するシンセサイザーとして、思考に旅をさせ、思考を可動的なものに変え、宇宙の力に変えるのである。(p.387)

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