Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://exphenomenologist.blog100.fc2.com/tb.php/390-d21a0a55

トラックバック

網野善彦『日本社会の歴史(下)』

日本社会の歴史〈下〉 (岩波新書)日本社会の歴史〈下〉 (岩波新書)
(1997/12/22)
網野 善彦

商品詳細を見る


室町政府の成立から江戸幕府の成立まで。17世紀以降も一応、第二次世界大戦後まで記述はあるが、簡略的であるしそれまでの記述と比べてこなれていない。著者も言うようにそちらはかなり駆け足の記述なので、実質的に扱われている時代は江戸幕府の成立までと考えてよいだろう。一貫して著者を導いている日本に関する歴史観は「日本列島の社会が決して斉一でも均質でもないこと」(p.163)である。本書の大枠になっているのは、南北朝から始まるような日本社会の分裂がやがて江戸幕府によって統一されるという筋書き。

室町幕府の成立期の混乱は、西暦1351年に対して三つの元号が使われていること(天下三分)--正平6年(吉野方)、貞和7年(九州の足利直冬)、観応2年(京都の足利義詮)--に代表される。だがこれは単なる権力争いではなく、「各地域社会の根底からの激動によって否応なしにおこった事態」であり、各地域の「離合集散が、政治の激動をよびおこし、京都の天皇家と幕府の権威を決定的に失墜させたのである」(p.20)。室町幕府にしても京都に新たな幕府を樹立しようとした足利尊氏の勢力と、鎌倉の東国王権を継承しようとした足利直義の勢力があり、室町幕府はそもそもの初めからこのような二頭政治であった(p.11)。この両者、室町公方と鎌倉公方の間は15世紀に入り、埋めがたいほどの深い溝となる。そして1438年、足利義教は鎌倉公方の足利持氏を破り、さらに1441年に持氏の子の春王・安王と結城氏朝を破り、ここに鎌倉府はいったん潰滅することになる(p.54ff)。

この混乱の15世紀の初頭、日本に領土と民族の考えが成立していくと著者は見ている。アイヌ・琉球とは違う「日本」という視点が明確になり、これによって、日本の支配地域--東は外ヶ浜、西は鬼界島、南は土佐・熊野、北は佐渡--がはっきりと社会の中に意識されてきた、と(p.45f)。

とはいえ、特に東国と西国の差は大きい。着眼点として挙げられているのが貨幣についてである。16世紀において、西国では所領の価値を米で測る石高制が採用されていたのに対し、東国では銭で表示する貫高、あるいは明の永楽銭で表示する永高が行われていた。これは、明では銀が活発に流通し始め、日本でも堺などで私鋳銭が流行していたため、西国では銭の価値が低下、信用も下落していたためである。16世紀後半においては、西国と東国で流通する貨幣が異なっており、それぞれの国制にも影響を与えた(p.87ff)。例えば、豊臣秀吉による1591年の東国の太閤検地では、東国での伝統を背景に奥羽では貫高が採用されている。これは統合においては西国以上に銭が貨幣として流通していた伝統が産み出した結果である(p.108)。江戸幕府による1636年の寛永通宝の鋳造は、こうした貨幣観の違いを吸収する、日本国の統一的通貨を作り出すという意味を持っている。つまりここに、日本はひとつの国家として明確な姿を示す(p.125)。

さて最後の方の明治政府への評価は、太平洋戦争についてどんな政治的立場を取るにせよ、性急な書きぶりにやはり違和感を覚えるものではないだろうか。例えば、明治時代において日本が近代国家となる素地(製糸を始めとする手工業の技術、教育レベル、商業・信用経済の発展)は江戸時代にあったにもかかわらず、明治政府は江戸時代を「士農工商」の身分制度にもとづく「封建制度」として全面否定したばかりか、天皇の子孫たる日本人、孤立した島国たる日本という誤った像を植えつけた、と評する(p.152)。
あるいは、
その出発点【大和民族の優位性に基づく植民地支配】に、明治以後の政府の指導者たちが、日本人に徹底的に教育を通じて刷りこんだ日本国そのものについての、神話を「事実」とする荒唐無稽ともいうべき認識、さらに日本列島とその社会に対する大きく誤った理解があったとすれば、明治政府の果たした役割については、これまでよりもはるかにきびしいマイナスの評価をしなくてはなるまい。(p.156)

明治以降の政府の選択した道は、たしかに欧米列強の圧力の中で、江戸時代の武家による支配を打破し、日本国の「独立」を保ったとはいえ、これは、まったく誤った自己認識の上に選択された道であり、政府によって刷りこまれた虚像におどらされた日本人を破滅的な戦争に導き、アジアの人民に多大な犠牲を強いた、最悪に近い道であったと私は考える。(p.159)


思い浮かんだ三つのポイントを書いておく。(1)行政管理上の名目がどうであっても、民衆レベルには多様性が多くあった、というのが著者のよくする主張である(例えば、豊臣秀吉は刀狩りを発し、百姓を農民とする農本主義を表したが、実際には多くの百姓が武器をその後も所持し、農民でもないこと(p.104f)など)。しかしここでは、明治政府の思惑に日本人がみな踊らされたかのような記述となっている。民衆レベルの多様性はどこへ行ったのか。(2)国家の成立について過去との断絶を述べながら、より太古の実は現前しない過去に起源を求め、国民と国家の歴史を神話によって構築するのは近代国家によくあるパターンであり、明治政府に限ったことではない。(3)著者が誤った日本像と述べた島国日本という国土観、アイヌ・琉球・朝鮮と区別される日本人、そして差別意識は明治政府がいきなり作り出したものではなく、いみじくも著者が示したように江戸時代における日本統一に向かって蓄積され、成立してきたものである。
スポンサーサイト
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://exphenomenologist.blog100.fc2.com/tb.php/390-d21a0a55

トラックバック

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。