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ジャン・ジャック・ルソー『人間不平等起原論』

人間不平等起原論 (岩波文庫)人間不平等起原論 (岩波文庫)
(1972/01)
J.J. ルソー

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250年ほど前の本だがいま読んでもかなり面白い。皮肉や風刺に溢れているところもあり、読み手のスタンスによって様々な印象をもたらすだろう。それでこそまさに古典。文明批判や自然保護運動などの思想的源流の一つ、思考パターンの一つとしても分析に値する。ただし邦訳は学術翻訳で読みにくい。関係節の訳し方が直訳に近く、もっと何とかならないものか。

ルソーは、人間は本来平等だったと語る。風土や生活様式の違いはあるが、これは人々を区別する差異であって不平等ではない(p.26,83)。文明が発展する以前の自然状態において、人間は平等であった。自然状態の人間には二つの原理的感情(衝動)がある。(1)自己保存への関心、生命体としての自らを保護し危険から避ける感情であり、これは自己愛(amour de soi)と呼ばれる。自己愛と自尊心(amour propre)を混同してはならない。自尊心は自然状態に存在しないものであり、憎悪、軽蔑を生み出す(p.181)。(2)あらゆる感性的存在の死・苦しみに対して抱く嫌悪の情、憐憫(pitie)。理性はこの二つの感情を抑制し、窒息させてしまった。現在の我々にもこうした感情はあるように思えるが、それは理性が別の基礎の上に立て直したものである(p.31)。

こうした人間が動物と違う点は、知性ではない。動物は感覚を持つのだから、観念も持っている。ある程度までその観念をつなぎ合わせもする。この点では人間とは量の差でしかない。そうではなく、人間は自然が与える印象を承認することも拒否することもできるという自由にある(p.52)。
自由以外に、人間と動物を区別するものがあり、これがポイントである。それは自己を改善する能力(perfectibilité)であり、ルソーによると、これこそ不幸のもとである。
この特異なほとんど無制限な能力が人間のあらゆる不幸の源泉であり、平穏で無辜な日々が過ぎてゆくはずのあの原初的な状態から、時の経過とともに人間を引き出すものがこの能力であり、また、人間の知識と誤謬、悪徳と美徳を、幾世紀の流れのうちに孵化させて、ついには人間を彼自身と自然とに対する暴君にしているものこそ、この能力であることはわれわれにとって悲しいことながら認めないわけにはいかないだろう。(p.53;147)


ルソーはまた、政治社会の始まりとして、社会的人間の始まりとして、そして不平等の始まりとして私有の観念を見ている(p.85)。私有は最初の悪として、競争や対抗意識、他人を犠牲にして自分の利益を得ようとする欲望を生み出した(p.102)のであり、この自分の評判を立てたい、他人により優位に立ちたいという熱狂こそ、われわれの僅かなの美徳と数多くの悪徳の源である(p.124)。私有の観念の成立によって、人間の間に不平等が広まっていくのである。だが自分には、私有の観念とそれによる不平等なら、動物たちの間にも確実に存在するように思える。ルソーが言いたい私有の観念にはもう少し何かが必要だ。

さてここからの社会(政治形態)の発展についてのルソーの記述は最高に面白い。社会契約は人々がお互いに自制するように合意したように見えるが、実際は富める者が自分の富を固定し守ろうとして、弱者にあてがったものである。こうして私有と不平等は永久に固定され、若干の人間の利益のために全人類を労働と隷属と貧困に屈服させた(p.106)。そして身分と財産の不平等が究極的にまで高まったのが専制政治である。専制政治において君主の意志以外に法律はなくなり、善や正義の原理は消失する。他のすべての個人は平等となる。これは新たな、だが前のものとほとんど変わらない自然状態だが、過度の腐敗の結果である(p.126f)。つまり、実に面白い弁証法的過程が説かれている。

こうして、自然状態からの理性の発展、社会の発展は輝かしい道ではなく、堕落の道である。ルソーは理性を堕落の結果と見る。隣人への憐憫を失わせるのは理性である。人間を孤立させるのは哲学である(p.74)。次の言葉は面白い。
自然がもしわれわれを健康であるように運命づけたのなら、私はほとんどこう断言してもいい、思索の状態は自然に反する状態であり、瞑想する人間は堕落した動物であると。(p.47)

とはいえ、ルソーは自然に帰れと言っているのではない。ヴォルテールはルソーの見解を評して、「四つ足で歩きたくなる」(p.190)と言うが、ルソーは決して社会を打ち壊し、所有権を否定し、森へ帰れと主張しているのではない。われわれはもう、法律や首長なしには生きていけないのである(p.157f)。


最後に2点指摘しておく。
(1)ルソーが設定している自然状態というものの性質がいまひとつよく分からなかった。ルソーは自然状態とは「もはや存在せず、恐らくは存在したことがなく、たぶんこれからも存在しそうにもない一つの状態」(p.27)という。これは権利上の問題であって、「事実は問題に少しも関係がない」(p.38)。にもかかわらず、ルソーの自然状態の記述は当時の民族誌や、異境の冒険談、つまり事実の記述に基づいている。ちなみに人間の自然状態とはオランウータンではないかとも言っている(p.160)。その事実の記述から外挿される自然状態も、やや納得しがたいものがある。未開人は動物ほどに強靭、生活は乱れず健康である(p.43-48)とされるが、多くの敵や病原体に晒された未開人がどれだけ健康だったのか。平均寿命は現代人よりずっと短いだろう。また、堕胎、同性愛、子供の遺棄や殺害は自然に反するものであり、未開人も動物も決して知らなかった(p.151f)とされるが、これは端的に生物学的事実に反していると思われる。ルソーは、他の哲学者たちは自然状態の人間に正義、所有権、権力などを持ち込んでいて、自然状態の未開人を描きながら社会人を描いていると言う(p.37f)が、自分の社会の概念区分と価値観を持ち込んでいる点ではルソーもあまり変わらないという印象を受ける。
(2)ルソーは、社会が堕落した状態であるなら、神は堕落するような生物を創ったのかという批判に対してこう答える。自然状態から社会への移行は老衰のようなものだと(p.209f)。だがこの比喩は適切でない。ルソーが本文で言っているのは、そもそも自然状態から移行するかどうかまで偶然の問題である(p.83)ということであって、その移行のスピードではない。老衰は偶然の問題ではないだろう。この自然状態からの移行が偶然に基づくというのは面白い論点だ。
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