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ジェラルド・エーデルマン『脳は空より広いか』

脳は空より広いか―「私」という現象を考える脳は空より広いか―「私」という現象を考える
(2006/12/01)
ジェラルド M. エーデルマン、冬樹 純子 他

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神経科学者による意識論。結論から言えば、神経細胞群選択説(Theory of Neuronal Group Selection; TNGS)によってその成立が説明される、脳の視床-皮質系の双方向の結合(ダイナミック・コア; p.90)が意識の神経学的基盤であり、意識とはこのダイナミック・コアの活動の「特性」(p.165)であり、クオリアとは神経プロセスの「識別」(p.175)である、とする。(だが特性とは何か?識別とは何か?)

TNGSは脳の大局論として提示されている。著者によれば、脳のモジュール説、すなわち機能局在論は脳の障害をあまりに単純に解釈した結果である。局在論は必要条件はさておき、十分条件を示すことはできない。とはいえ脳は全体の働きによってのみ機能するという全体論も、精細な研究には耐えない。必要なのは脳の大局論である。「機能別に分離した多くの脳領域が、複雑に関係しあい、しかし全体としては統合されたかたちで(すなわち複雑系として)結びついている」(p.47)のが脳の姿である。

著者のTNGSはこうした大局論に立ち、脳の発展を説明する。TNGSは、脳が世界の情報に対して示すパターン化された反応がどのように生じるのかを三つの原理によって説明する。(1)発生選択。発生段階で同時発火したニューロン同士は互いに配線される。(2)経験選択。発生段階で出来上がった結合が、環境からの様々な入力によって強められたり弱められたりする。(3)再入力。ニューロン群同士が局所的/広域的に双方向の結合を形成し、広範囲でのニューロン活動の同期を可能にする(p.57f)。ただし自分にはこれは個体の発生に関する話のように見える。種全体における脳の進化はどうなるのだろうか。

TNGSの第三のポイント、すなわち再入力(reentry)が意識への道を拓く。意識の出現の最終的な十分条件となった進化上の出来事は、視床-皮質系に新たな双方向の結合(ダイナミック・コア)が現れたことである。つまり、知覚カテゴリー化(感覚情報を分解し意味付け、適応行動へつなげること)と価値カテゴリー記憶(価値系の投射によって重み付けられた記憶システム)の間に再入力が形成された、という出来事である。この再入力によって知覚シーンを構成する能力こそ、原意識が生まれる基盤だ、とされる。(p.74ff,139)
ここでは原意識であるが、霊長類に代表されるような高次の意識の方は、原意識において概念形成に関わる領域が意味能力に関わる領域と新たに再入力回路でつながったとき、誕生した。(p.142)

そして、ダイナミック・コアの神経活動が、外界や脳自体からの信号をそれらのクオリアを感じる状態へ「現象変換phenomenal transformation」する。この現象変換のプロセスこそ意識である(p.99f)。なお、ダイナミック・コアは動的であり、ある時あるクオリアを生み出すのに寄与したニューロンが、次の瞬間には関わっていないかもしれない。表象とダイナミック・コアの状態は一対一対応しない(=タイプ同一ではないが、後述するようにトークン同一)。(p.129f)

とはいえ、意識とはいったい何なのか。心の哲学の素養が薄い自分にはいま一つよく分からない。著者エーデルマンの主張は一番簡単に言うと随伴説である。意識自体はプロセスであって実体ではないから、物理的に何かを引き起こすことはできない(意識は因果的効力を持たない)。しかし、ある意識状態Cに対応するダイナミック・コアの神経プロセスC'は、次の神経プロセスの活動を因果的に引き起こす。意識は、神経プロセスに必然的に伴う。神経プロセスは意識をentail(含意)する(p.100f)。というわけでこの主張は、Kimの随伴説と「ほぼ一致する」(p.104)。ここについている「ほぼ」の留保の理由は正直、よく分からない。

とすると気になるのは、随伴説に向けられる二つの典型的批判にエーデルマンがどう応えるのかである。つまり、(1)因果的効力も持たず単に随伴しているだけの意識に何の価値があるのか。むしろ、神経プロセスがあっても意識がない生物でもいいではないか。哲学的ゾンビ問題。(2)意識が神経プロセスに何の影響も及ぼさないなら、我々が意識状態について語っている(と思える)のはなぜか。現象報告のパラドクス。

(1)についてのエーデルマンの回答は要約してしまうと、神経プロセスは意識を必然的に含意する(entail)のだから、神経プロセスに意識が伴っていないなんてこと(哲学的ゾンビ)はありえない、というものだ。すなわち、哲学的ゾンビは「論理的に成立しない」(p.102,175)。これが説明になっていると考える人は皆無だろう。どうやら言いたいことを汲み取るなら、哲学的ゾンビが可能であるように思われるのは、我々が神経プロセスについてまだ無知だからだ、となるように思われる(ア・ポステリオリな必然性からの議論)。

(2)については、コア・プロセスが含意する意識を体験することは、他の動物個体とうまくコミュニケーションする方法を与えると書かれている。すなわち個体がアクセスできる情報はあくまで(コア・プロセスを忠実に反映する)意識の状態であり、意識を持つことによってコア・プロセスの状態をコミュニケーションできるようになった。だから、意識がなければコア・プロセスの状態について表現できない。これは説明になっているだろうか。自分には、ここで意識が実体化されているように見える。あらかじめ意識についての報告が可能であることを仮定し、進化論的にその意義を与えることによって、パラドクスを解消しようとしている。しかし、[1]神経プロセスが意識そのものを認識対象にするわけがない。著者の見解から考えれば、他の個体とのコミュニケーションはすべて神経プロセスの活動であって、「意識」による報告ではない。[2]クオリアを持たなくても、クオリアを表す言語は使える(色盲の人の色言語)。ある種の意識現象を欠いたとしても、それを表現できないとは限らない。

哲学的な話が聞きたいなら、哲学者の書いたものを読めということか。チャルマーズでも読むとしよう。
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