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ブルース・バートン『国境の誕生』

国境の誕生―大宰府から見た日本の原形 (NHKブックス)国境の誕生―大宰府から見た日本の原形 (NHKブックス)
(2001/08)
ブルース バートン

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実際のところ、九州と朝鮮半島のあいだの海峡が日本の国境とみなされるようになるのは、白村江の戦い以降であった。また、その国境を横断する交通を規制すべく、日本国が正式な「関門」を設定したのも、この時期である。この「関門」が、北部九州の博多湾の近くに設立された中央政府の出先機関で、「大宰府」と呼ばれるものである。(p.32)

主に大宰府(いまこの地名は「太宰府」と書かれるが、元々は「大宰府」である)を中心にして、古代日本において北部九州が果たした役割を論じたもの。博多周辺に馴染みのある自分にはかなり面白い本だった。

古代の大宰府とは単純に言うと、入国管理局、国境警備隊の司令部、税関、迎賓館として機能した(p.39)。大宰府は663年の白村江の敗戦以降、短期間で建設されたもの(p.92)である。古代朝廷は白村江の戦い以降、対馬を領土の境界として意識している。大宰府の成立は、国境という意識の成立と連動しているのである(p.79,100)。そして大宰府は高さ13メートルの水堀である水城を防壁とし、大野城を山城として防衛線を構成している。自然の山谷を考慮に入れて選ばれ、建設されたものだ(p.50)。

著者の見るところ、こうして大宰府に国境管理を集中させた奈良時代は、江戸時代に比するような閉鎖的な国家だった(p.115,127)。奈良時代は遣隋使などもあって国際交流が盛んのような印象を受けるが、実際はこの国交は奈良の大和朝廷によって大宰府を通じて厳密に管理されたものであり、朝廷以外が担うことはなかったのである。だがこうした国境管理は、9世紀から徐々に緩んでいく。それは大和朝廷の支配力が弱まったこともあるが、新羅や唐からの商人の急増(p.180)、新羅の海賊(p.188)、また海外から伝わる伝染病への恐怖(p.200f)が挙げられている。

これら外国への恐怖を背景に、朝廷の弱体化、そして最終的には藤原純友の乱(941年)による大宰府・鴻臚館の焼失によって、この古代的な国境管理体制は終焉を迎えた(p.201)。これ以降、大宰府を朝廷の出先機関として厳密に国交を管理しようとする意図は薄れ、詳細について朝廷が口を出すことなく、大宰府の長官(都督)に多くが任されるようになった(p.210)。

著者はまた、11世紀以降の北部九州を描く。大宰府の焼失以降、貿易を始めとする国際交流の中心は、大宰府より北の博多に移った。博多はこうして日宋貿易によって栄えた。いまも残る唐人町は渡来した人々の住処だったし、筥崎宮や承天寺は貿易に深く関わっていた(p.219ff)。行政の面でも蒙古襲来に対して1290年代に設けられた鎮西探題、その後の九州探題が置かれたことにより、博多は大宰府に変わって北部九州の中心となる(p.231)。だが戦国時代になり、大内氏と大友氏の抗争のなかでいくども博多は焦土となり、江戸時代に至って鎖国政策のなかで外国との接点を奪われてしまった(p.236)。しかしこの江戸時代の鎖国政策にしても、外国との交流地点を限定させ、中央政府から厳密に管理するという点では大宰府を中心とした管理体制に近い。大宰府は単なる地方の役所ではなくて、江戸時代の鎖国政策のプロトタイプなのである(p.240)。

[...]「日本」と「日本人」は、昨日や今日にできたものでも決してない。そのルーツを探れば、結局のところ、一三〇〇年前の七世紀後半の緊迫した国際環境にたどり着くのである。/「日本」「日本人」の誕生と不可分の関係にあるのが、大宰府という存在である。[...]大宰府は、同じ七世紀後半に、新しい民族国家の「内」と「外」を峻別するために置かれた「関門」であった。したがって、大宰府の成立は、北部九州という一地域史の問題にとどまらず、まぎれもなく「日本」と「日本人」の成立そのものを意味するものである。だからこそ大宰府は重要なのである。(p.258)
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