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ジャック・デリダ『法の力』

法の力 (叢書・ウニベルシタス)法の力 (叢書・ウニベルシタス)
(1999/12)
ジャック デリダ

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法/権利は正義ではない。法/権利とは計算の作用する場であり、法/権利がいくらかでもあることは正義にかなっている。けれども正義とは、それを計算することの不可能なものである。正義は、計算不可能なものについて計算するよう要求する。そしてアポリアを含んだ経験とは正義の経験である。正義の経験とはつまり、正義にかなうものかそれとも正義にかなわないものかの決断に規則が何の保証を与えることのできないさまざまな瞬間における避けて通れない、けれどもとてもありそうにない経験である。(p.39)


デリダの政治哲学。脱構築は正義であるという有名なテーゼを含むこの本は、哲学や文芸批評の分野のものと思われていたデリダの哲学を広く推し進めたものとなった。ちなみに、この脱構築は正義であるというテーゼが出てくる箇所(p.34f)は「脱構築は法/権利を超えている。正義も法/権利を超えている。ゆえに脱構築は正義である」となっていて、これ自体では妥当な論証ではない。

法/権利と<区別>されるものとしての正義を描いたデリダの論考は面白いし、かなり分かりやすい方に入る。法/権利はあくまで正義の名において主張するが、正義は法・権利を超出したり、法に矛盾したりするものである。正義は法・権利を排除することもでき、要求することもできるという奇妙な関係を保っている(p.12,39,52-54)。法/権利を基礎づける作用そのものの拠り所となるのは、定義上それ自体しかない。法/権利自体は基礎を持たない暴力(法措定暴力)である(p.33)。この法措定の瞬間は法を初めて措定する瞬間はどんな根拠にも基づかない革命的瞬間であり、例外的決断である(p.125f)。

だから法/権利はいつでも、正義の名のもとに現れると同時に、正義の名のもとに糾弾される。法/権利は正義の名のものに脱構築される。これは実は政治的進歩の源である。現前する正義への脱構築は無限の正義の理念に基づく。この無限性は他者に由来し、正義の理念はやってくるもの(未来avenir)である。交換の経済に入らない狂気であり、法や政治に内在する狂気である(p.63-71)。こうした他者、未来、狂気に対して身を開くこと、正義の言うことを聞くこと、すなわち、正義がどこからやってきて我々に何を要求するのかを理解しようとすること。これが正義に対してなされる最初の正義である(p.47)。

さて、後半のベンヤミン読解の方はどうも今ひとつだった。自分の関心と離れることもあってか、切れ味がよくない印象。例えば近代警察について、警察は法維持だけでなく法措定も行う卑劣な存在であり、幽霊であると述べたりするが(p.130-138)、これは法システムの自己産出と言ったほうが個人的には納得する。司法システムにおいても同じように述べられる(p.55-58)が、これもパラドクスや卑劣性というよりは自己産出と言ったほうがすっきりする。

さらに議論を呼ぶユダヤ的な神的暴力とナチズムの評価については、ドゥルーズを読んだ身にはどうも鮮明さを欠く。ベンヤミンは神的暴力はただ単なる破壊ではなく生命を尊重するものであり、さらに生命そのものというよりも、正義を実現しうる存在として人間の生命を尊重するものだ(p.161-165)と述べるのだが、これは天下り的に出てくる。神的暴力が最後のところで正義を担保する理由はどこにあるのだろう。これは人間中心主義に基づくメシアニズムにむしろ見える。

デリダはナチズムを神話的暴力の先鋭化であり、近代国家の腐敗と見ている(p.183ff,189f)。神話的暴力の先鋭化はデリダも少し述べるように、むしろ今の日本のような何も決められない国家であり、第一次世界大戦後のハイパーインフレに対処できなかったドイツ政府だろう。ナチズムはそのような停滞からの救済として当初、その姿を見せた。だから最終解決ではなく、ナチズムそのものがすでに神的暴力であると個人的には考えたいところ。ナチズムとは戦争機械が国家を乗っ取ったものであり、戦争機械はそれ自体で、あらゆる物を巻き込む危険な逃走線を引く。戦争機械は生命や正義を担保するような目的は持たない。

するとデリダの言いうる結論は、ベンヤミンの破壊、ハイデガーの解体と最終解決の思考の近さを指摘し、両者に欠けているのはそれら両者の結託を検討すること(すなわち脱構築)である(p. 193ff)、となる。それは他者に対するどんな応答も常にすでに遅れており、不十分であるのだから、いつまでも脱構築の可能性は残るだろう。けれどもこれは他面で、正義はただ訳も分からないがやってくると言っていることになる。正義は直接的に正面から論じることはできない(p.22)にせよ、あくまで法/権利の姿をとって現れるものである(p.54)。法/権利という構築物があるからこそ、脱構築は可能になる(p.34f)。構築されたものがなければ、脱構築は不可能である。

もちろんこの二番目に遅れてくる脱構築は、差延の概念のもと根源的な脱構築を主張するわけだが。いかに原理的に不可能であれ、ともかく応答しなければならない。完全な合理性は無理でも、限定合理性のもとで決断は行われる。間違っていれば訂正すればいいではないか・・となると、これはよくあるチープな批判である。
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