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苅谷剛彦『階層化日本と教育危機』

階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)へ階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)へ
(2001/07)
苅谷 剛彦

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凄まじい本だった。噂通りだ。統計データを用いた冷徹な視点をもって、教育における階層化を「暴いて」いく。まず主に農民層からの流出により、誰でも教育を受けられる社会と、ホワイトカラー・ブルーカラーが急増したこと。「機会の平等」というよりも「処遇の平等」を求めた教育が、逆に格差を広げていること。優秀な人ほど私立に逃げる、「ブライト・フライト」。そして、格差は学習時間を始めとする「努力」に広がっていること。成績の悪い子ほど、自分にはいいところがあると「自信」を持ち、現状に甘んじてしまう「インセンティブ・ディバイド」。そしてそれも自己責任と押しつけ、階級差を隠蔽する自己責任社会。

どれもが明晰な論証と、きちんとした統計分析によって語られる。議論の明晰さには目を見張るものがある。階級格差を様々な観点から暴き出す手法も驚く。だが、格差を覆い隠している現在の教育観の成立を丹念に跡づけた第三章がもっとも面白かった。ここでは日教組の全国集会の記録を時代的に追いながら、その成立を理解社会学の視点から解明する。それは、差別が<差別感>と感情の問題に定位させられてしまうことにより、差別に関する議論そのものが差別感を生むとして封じられてしまう、という結論を得る。

先を読み進むのが恐ろしくもあり、また勿体なくもある一冊だった。定量的なデータに基づく、冷徹な議論。まさにここには学問の力があるだろう。「教育の実証的な研究が積み上げる知識には、どれだけの力があるのだろう」と著者はつぶやく。本書は、著者のようなデータに基づいた冷静な議論がなかなか成立しない、日本の教育論議を徹底して批判し、嘆いている。だが、本書の持つ力は大きい。にもかかわらず、著者がオックスフォードへ行ってしまったことは、日本の状況がいかに深刻であるかを思い知らされる。


amazonに読書記掲載。
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凄まじい名著。教育のなかにどのような格差、階層差が生まれているのか。早い段階から私立校で英才教育を受ける子供たち。学級崩壊する学校でやる気を失っていく子供たち。その違いは何であり、どこから生まれたのか。本書は教育における格差問題を扱う。その扱い方は徹底して科学的だ。つまり、調査結果に基づく統計データを様々に利用し、議論を組み立てていく。この議論は極めて説得的である。もちろん、それは著者の見解がすべて正しいことを意味するわけではないが。

本書は教育における格差問題を、統計データによって定量的に明らかにした。だが本書の価値はそれに尽きない。もう一つの論点は、そのような格差を見えなくしてきたものは何か、という問いだ。教育に関する我々の理解を問う、メタ的な視点である。これを巡り、著者は日教組の全国集会の記録を丹念にたどっていく。この文献学的視点は、驚くべきものだ。個人的にはここに魅力を一番感じた。

著者によれば、我々は次のような時代を生きている。戦後、主に農民層が教育を受けられるようになった。こうして(ほとんど)誰もが高等教育まで受けられる、大衆教育社会が生まれた。このことは、本来背後に存在しているはずの格差を見えなくした。かくして、教育の問題とは、実際の格差(階層、人種、性別等)に基づく差別ではなくなった。そうではなく、個人の能力に基づいて個人を序列づける、能力主義が教育問題となった。社会階層の裏付けを持たないことの差別は、<差別感>の問題というように、感情の問題になってしまった。差別感を持たせることがすでに差別であるから、そのような差別感について論じること自体が差別感を持たせる。かくして、教育論議から学問的議論は消失したのだ。

だが、議論が消失しても格差は消えるわけではない。誰に対しても平等に処遇する、という日本の奇妙な「処遇の平等」。これは機会の平等でも結果の平等でもない。それが証拠に、処遇の平等の背景で、できる人は優秀な私立校へと「逃げていく」。著者の言う「ブライト・フライト(優等生の逃避)」が起こっている。かくして、処遇の平等を求めることは、実際の処遇の差をますます深めていく結果になるのだ。皮肉な結果である。

著者の議論は、さらに「努力」の問題へ切り込む。個人の能力でなく、努力の問題。どれだけ意欲を持ち、努力するかすらに、ある程度、階層差が見られるのだ。そして「自己責任社会」の下では、努力する・しないは個人の問題だ。個人は、努力の結果を引き受けなければならない。だが、そもそも努力に階層差があるのなら、これは個人の問題ではありえない。この点を隠蔽した結果はどうなるか。努力しなかった人は、社会の要請通り、それを自分の責任と引き受けてしまう。つまり、努力しなかったその結果に満足し、安住してしまう。階層的に努力の差があると見られる人ほど、「自分にはいいところがある」と自信を持ってしまうのだ。こうして、意欲・努力そのものの階層差が広まる。「意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)」の成立である。

「努力」という極めて個人の資質とされてきたところまで広まる格差。そして未だにそれを覆い隠す、教育論議。この本には、スタートラインから格差が付き、そして挽回のチャンスが減ってきている日本社会への憤りと、それを認識・理解しない教育論議への痛切な批判に満ちている。著者はこの社会への対処法を描いている。多様な教育機会を可能にするキャリアファンドの設立だ。ともあれ、本書の主眼は分析と批判であることに変わりない。

もちろんのこと、本書の分析は完璧ではない。特に後半の、努力の階層差についての議論。重回帰分析の読み方に、素人目にも疑問が残る。だがその批判は、同じく統計データの定量的分析をもってなされるべきだろう。本書のスタイルと圧倒的な説得力は、それを迫るのである。

教育において、定量的分析を用いた厳密な議論を避ける風潮。果てはその正当化に、「教育は数字では測れない」などと言われる始末だ。個人的にはそのような風潮を徹底して批判した本書に、すがすがしい爽快感を覚えた。まさしくこれが、実証的な研究がもたらす学問の力なのだ。だが本書が突きつけた内容は、そのスタイルとともに非常に重いものである。本書の内容を踏まえずして、教育について語ることは許されないだろう。
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