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奥村宏『株主総会』

株主総会 (岩波新書)株主総会 (岩波新書)
(1998/03/20)
奥村 宏

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1997年の総会屋スキャンダル(野村證券から始まって証券、銀行、小売、自動車、等々と明るみになった総会屋との関係)を機に書かれた本。話題としては古いものとなるが、この本が提起している問題はいまでも説得力を持つ。

本書は株主総会というものがどういう位置づけのものであって、日本ではそれがなぜ機能しないのかを述べている。マスコミは総会屋スキャンダルなどの事件が起こると、その事件のあらましや経緯は報道するが、それがなぜ起こるのかという構造的な問題に焦点を当てることは少ない。おまけに、そういう経緯を知っていても実際に事件が明るみになるまでは書かない(p.191-196)。

機能しない株主総会(シャンシャン総会)、そして日本と韓国くらいにしかいないという(p.172f)総会屋を生み出した日本企業の構造とは何かというと、それは著者が法人資本主義と呼ぶものだ。日本の企業では、株式持ち合いという形で、法人が法人の株を持っている。大株主はメインバンクやグループ企業、取引先などの法人だったりする。

株主総会は会社の経営方針について株主が決定する場であって、企業運営の最高意思決定機関とされる。あたかも政府と国会の関係のようであって、民主主義の比喩で語られる。けれども、会社は株主のものと言われても、日本では持ち合いで大株主は法人である(p.35f)。そもそも、株主総会に大株主たる法人そのものが出席することはできない。その株主としての意思決定は法人を代表する社長がすることになる。この社長は個人的には株を持っていない企業について、法人を通して支配権を及ぼすことができる。これは妙な話だ(p.135-145)。

株式持ち合いの法人はそんな重大な意思決定を起こすこともないし、相手企業の議決に万が一反対するならば、株式持ち合いでは今度は向こうがこちらの議決に反対するかもしれない。かくしてすべて白紙委任となる。これでは株主総会が形骸化するのも当然だ。株主の大部分が法人であること、株主とは誰かを問題にせずに株主総会の議論をしても無駄である(p.102f)。

総会屋の問題について言えば、その裏には日本では取締役が職能でなく身分と見られている点が挙げられる。取締役は出世の目標である身分である。取締役会の決定の執行責任は代表取締役にあるが、身分の高い人がなるので平取は誰も文句が付けられない(p.38-44, 203f)。こうなると、社長に株主総会で恥をかかせる訳にはいかない、として総会屋に金を渡すような行動が生まれる。社長を神様扱いするような会社のあり方を変えなければ、株主総会の活性化にはならない(p.175f, 201f)。ただし、社長の言うことに誰も文句を付けない、というこの無責任体制は高度成長を可能にした側面もある。

他にも、あまり議論もなく実施された単位株制度や純粋持株会社の解禁の問題点も意外な論点だった。単位株制度は一株一票という大原則を崩すものである。これは総会屋対策としての表を持って導入されたが、一株株主運動を排除する側面もあった(p.23,155)。純粋持株会社の解禁は、日本企業の問題たる株式持ち合い、法人資本主義を解消するどころか、それを強化するものである(p.148, 181-184)。
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