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エチエンヌ・ジルソン『アベラールとエロイーズ』

アベラールとエロイーズアベラールとエロイーズ
(1987/03)
エチエンヌ ジルソン

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中世を定義する言葉を見つける前にエロイーズを定義する言葉を見つけなければならないであろう。そして次にはペトラルカを定義する言葉を探すことを勧めたい。それがすんだら三番目にはエラスムスを定義する言葉を。そしてこの三つの問題が解けたなら、非常に確実に中世とルネッサンスを定義することができるであろう。しかし実際には、三足す二で五の解決不可能な問題を作り出すだけである。[...]われわれが歴史を学ぶのは現実を離脱するためではなく、歴史がなければ埋没してしまうであろう過去を救うためである。それは歴史が存在しないならば過去に属することさえも不可能だったものが、現在のうちに、そのなかでしか何ものも<存在>しえない現在という唯一の時のうちに再生するためである。(p.178f)

エティエンヌ・ジルソンは中世思想家。西欧の中世といえば、かつてはルネッサンスとの対比で「暗黒の中世」などと呼ばれていた。キリスト教に支配され人々は自由もなく暮らしていた、と。こうした中世像を打ち破ったのがジルソンだとも言える。彼の中世哲学についての本は難解ではあるが異様な迫力を持つもので、自分もいくつも読んだ。本書はアベラールとエロイーズを取り上げることにより、もっと平易な形でこの「暗黒の中世」像に疑問を投げかけるもの。

ジルソンいわく、「暗黒の中世」という中世解釈は事実による歴史的仮説でなく、神話なのである(p.161)。そもそも中世とルネッサンスの区別は抽象的記号であり、本質も持たないしそれゆえ定義もできないものである(p.164)。ルネッサンスを持ち上げる人々(たとえばブルクハルト、ミシュレなど)は、中世は批判的精神に欠け、神話やドグマのもとに事実を抑圧すると言うが、それこそこうした歴史家が中世に対して取っている態度だ。「彼らが中世に対して批判する欠点のすべてを彼ら自身が持っている」(p.158)とジルソンは皮肉を書く。

ジルソンは宗教のもとで抑圧され、独立した批判的個性がないといった中世像をアベラールとエロイーズ、むしろエロイーズ単独でもって反例として提出する(p.159)。本書はそうしたエロイーズの独立した姿を描いている。その描き出しには成功していると言って良い。ここで描かれるエロイーズは実に素晴らしい、というよりも凄まじい。この話は12世紀の「いずれにせよ初めから尋常でない」(p.24)話である。優秀な宗教家・哲学者として通っていた当時31歳のアベラールは、当時才女として名が通っていた17歳のエロイーズを誘惑しようとして家庭教師という名目で接近する。そして有り体に言えばアベラールはエロイーズの若い肉体との肉欲にハマる。現在であれば淫行条例違反の典型的事例である。やがてエロイーズの父フュルベールに知られ激しい怒りを買うところとなり、あろうことか子どももできてしまう。アベラールは、エロイーズが激しく反対するにもかかわらずとりあえず責任を取って結婚する。だがそんな間に合わせの結婚が面倒になったのか、または未婚を貫くべき聖職者という立場とエロイーズを受け入れることという二つのモラルの間で引き裂かれた(p.68)からか、アベラールは最終的にはエロイーズを修道院に入れてしまう。これで二人の関係は疎遠になる。何十年も経ち、アベラールはエロイーズと再会。それ以降交わされた書簡が残っている。

こう書くとアベラールはかなり喜劇的である。「それにしても二人の生活の始めから終りまで、アベラールはエロイーズを次から次へとどうしようもない状況に置くことになった。姦淫から秘密の結婚へ、秘密の結婚から召命のない着衣へ、修道誓願から修道院長としての責任へ、真の痛悔の伴わない犠牲だけによる悔い改めの生活へと駆り立てていったのである」(p.124f)。凄まじい、あるいは恐ろしいのは、エロイーズの書簡に現れるアベラールへの想いである。エロイーズは純粋に、アベラールへの愛のみによって生きている。アベラールとの結婚を強く拒んだのも、アベラールにとって、エロイーズとの結婚は不名誉(p.40)であり、聖職者は未婚であるべきというアベラールの立場を配慮したものであって、結婚するくらいなら娼婦であるほうがマシだとまで言う。アベラールはエロイーズに向かって、あなたは修道院に入り修道院長にまでなったのだから、私への愛は神への愛によって置き換えられてあるべきだと述べる(p.89-96,101f)。ところがエロイーズによれば、神なんてどうでもよいのである。修道院に入ったのはアベラールがそうしろと言ったからであり、神への愛なんてまったくないばかりか、アベラールとエロイーズを引き裂き、エロイーズを絶望に陥れた神をむしろ恨み、非難を向けるのだ(p.115-125)。アベラールが命じたからこそ、子どもを捨ててまでエロイーズは修道院に入ったのだ(p.199)。エロイーズは神への何の愛もなく、40年に渡る修道院生活を送り、アベラールの命令に最大限に忠実であろうとして修道院長という責任ある立場まで務めたのだ(p.131)。これが恐ろしい以外の何ものだろう。強烈な個性である。

こうしたエロイーズの「純愛」(と言うには空恐ろしい)は、アベラールを通じて学んだキケロにある(p.74)。まさにその意味でエロイーズは「ストイック(ストア派的)」である。アベラールのキリスト教徒的服従とエロイーズのストア主義的甘受(p.109)が際立っている。エロイーズは神をも非難してアベラールへの一途な愛を訴える(それも会わなくなって何十年も経っているのに!)。愛ゆえにもたらしたアベラールへの害を、意志が善であれば行為の結果は問われないとするアウグスティヌスを持ち出して正当化さえする(p.77-80)。

もちろん中世キリスト教の文脈にあるこの二人の話は、様々な宗教的含意も多く、当時の制度の中にあるわけで、何にも見えなくなって暴走する10代の少女とグダグダな男の、少女マンガっぽい恋愛話ではない。ともあれ、ジルソンが中世における強烈な個性の事例としてエロイーズを描くことには成功している。エロイーズについてもう一つ述べれば、エロイーズは修道院会則は結局男性用のものしかないと語る。そこでセネカを導きにしつつエロイーズがもたらした結論は、キリスト教徒が守るべき唯一の戒律は福音書だというもので、それ以外の肉食を禁じるような戒律は不要と述べている(p.168-175)。これは凄い。別に神への愛なくして修道院長を務めた自律した個性のエロイーズこそ成しうる考えだろう。この内実、教会が伝統的に定めた様々な規則への盲目的服従ではなく福音書そのものへ帰ることはつまり、三世紀先の宗教改革の言葉(p.172)なのである。

ジルソンの書くものはどれも難しいが、この本は話題が話題であるだけに読みやすい。ジルソン自身の視点もよく見える好書である。それにしても男からすれば、エロイーズは恐ろしい。
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