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池田信夫『ハイエク 知識社会の自由主義』

ハイエク 知識社会の自由主義 (PHP新書)ハイエク 知識社会の自由主義 (PHP新書)
(2008/08/19)
池田 信夫

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ハイエクについての紹介本。ハイエクは経済学者だが思想的であり、数式を散りばめるような数理経済学者ではない。またケインズの大きな影響力の背後に隠れてしまっていた。やっと1980年以降に注目を浴びてきたと思えば、今度はリバタリアニズムと容易に混同されたり。その像は正確に掴まれていない。本書はケインズや社会主義、リバタリアニズムとの比較を通して自由を擁護する保守主義者としてのハイエクを描いたもの。

結論から言えば、ハイエクの思想はロックやヒュームのイギリス経験論にある古典的自由主義の延長線上にあって、西洋思想の中では案外にオーソドックスなもの。しかしその古典的自由主義は、ドイツ観念論や社会主義を通してかなり異なる形を取ることになった。ハイエクは「このように怪物化した自由主義を一八世紀の素朴な形に戻した」(p.195)のだ。だから言ってみればハイエクの思想はそのような自生する自由を支える社会文化を背景として成り立つものであり、「ハイエクの古典的自由主義は、全世界に移植可能な万能薬ではない」(p.193)。

さて本書の最初はケインズとハイエクを対比して語られる。ここでは政治家・野心家としてのケインズと、基本的に学者体質のハイエク(p.40)がよく描かれている。著者はケインズの『貨幣論』を巡るハイエクとケインズ(とその一派)の論争を読み解き、ケインズの主張には論点先取や政治的レトリックがあることを述べる(p.38,43-49)。これは単にケインズをけなしているわけではなく、財務省の官僚たるケインズにとって不況である時には政策当局として何かをしなければならないという動機がある。「一方で、ハイエクにとって市場経済は自律的に動くシステムであり、政府が自由に市場をあやつることは幻想でしかなかった。そしてハイエクは、大恐慌に対して有効な処方箋を書くことができなかった。」(p.45)

ケインズの話に続く、1950年代のoperation research論に端を発する1960年代の分権的社会主義とハイエクの対比は、このような話題を振り返ることがいまは少ないため、なかなか役に立つ。そもそもハイエクの名著『隷従の道』が隆盛する社会主義への歯止めとして書かれた。著者がまとめるところでは、分権的社会主義の失敗の根本原因は国家が自身の目的関数を定めることができないことだ。目的が定まれば様々なパラメータを調整するoperation researchの方法により、国家を構成する各経済主体の最適な生産量が決定できる。個人の選好や企業活動の目的なら明確になるが、国家全体のそれを定めることはできない(ということは、企業経営の観点で国家政策の運営を語ることはできないということになるだろうか)(p.57-60,63)。ところで本書をよく読むと、この分権的社会主義の論点にハイエクの話はほとんど絡んでいない。本書にはところどころあまりハイエクの思想には直接関係がないような時事論評が出てくるが、そのあたりは割り引いて読む必要があろう。

面白いのはハイエクにおける自由の考え方で、「自由の意味は、無知な人々が最大の選択肢をもち、いろいろな可能性を試すことができることにある。このようにオプションを広げることによって効率が高まることは多いが、それが目的ではない(社会に目的なんかありえない)」(p.89)。すなわちハイエクによれば、我々は無知ゆえに自由なのだ(p.90-92)。我々は他人の持つ目的はわからないし、まして社会全体の目的などまったく不明である。したがってその目的に向かって社会を改善し人々を導くようなことなど、できるわけがない。他人のことはわからないので、自由にやらせるしかないのである。これはルーマンを思い出す。自由とは他システムのコンティンジェンシーを縮減する手段である。

そして、お互いの知識を媒介するのが市場である。市場における価格とは、知識を伝達する手段である(p.73f)。すなわち、例えば銅の価格がどこかで需給の逼迫により上昇すれば、他の人は銅の購入を控えるようになる。これはつまり、ある人の銅の需給に関する知識が、価格を通して需給に関して何の知識も持たない人に伝達され、行動を規制することになるわけだ。市場メカニズムとは、このように知識を伝達する。社会主義的政府が需給を調査して価格を計画するよりもずっとコストが低い。そしてこのような市場メカニズムを支えるのが財産権を守る法律や慣習法である(p.79f,159f)。たしかグリーンスパンも市場の成立要件として財産権の保持を語っていた。

ハイエクとフリードマンの比較も役に立つ(p.115-119)。フリードマンはその膨大なデータを用いた研究からも伺えるように、基本的に論理実証主義的立場を取っている。つまり、データから仮設を構築して経済現象の因果を推定しようとしている。ハイエクはこうした考えには基本的に反対である。またフリードマンはマネタリズムで中央銀行が貨幣量をコントロールすることを説いたが、ハイエクにとってはそんなコントロールは不要であるばかりか、貨幣の発行を中央銀行が独占することすら否定する。ハイエクは合理主義そのものに反対する(p.138)。しかしこうした自由に基づくシステムは、自生的秩序と言われながらも、自由は脆弱であり、それを壊すシステムから守らなければならない。ここに保守主義的革命という形容矛盾、ハイエク問題があるが、これは思想上の矛盾というよりは発展と捉えたほうが良いと著者は記す(p.185-188)。

というわけでやや脱線や与太話が多いし一方的に見える議論もあるが、ハイエクの議論のポイントは押さえている。いまの社会状況に特に結びつけることなく、ハイエクの思想それだけを知りたい向きにはちょっと読みにくいが、手軽に読める良書であろう。
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