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本郷和人『天皇はなぜ生き残ったか』

天皇はなぜ生き残ったか (新潮新書)天皇はなぜ生き残ったか (新潮新書)
(2009/04)
本郷 和人

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天皇家はなぜ残ってきたのかという疑問に対して答えようとする、かなりの意欲作だと言える。天皇家が残ってきたのはなかなか不思議である。平安時代後期には藤原氏をはじめとする貴族に実権はあって、天皇はほぼお飾りにすぎない。武家政権になってからはなおさらそうである。江戸時代として戦乱の世が終われば権威付けとしての天皇すら不要である。むしろこうした権力の担い手の交代によって王朝・王統というのは廃されるのが、歴史的には普通である。必然であれ偶然であれ、天皇家が残ってきたのはなぜか。イデオロギー的に議論の多い領域であるが、著者は情念でなく論理によって議論を進めようと試みる(p.5)。

とはいえ、その議論図式はやや硬直しているようにも思える。全体を貫く鍵となるのは、当為と実情という概念対である。これはお馴染みの建前と本音と置き換えたほうがはるかに分かりやすい。天皇は建前として必要とされる時代と、本音として天皇自体が権力を振るう時代に分けられている。律令制を取り入れた日本だったが、この律令制は所詮は外来の行政組織であって、日本には長く続かなかった。例えば、律令制では土地はすべて公有であったが、三世一身法、墾田永年私財法をもって早くもそれは崩れる。令外の官の頻発や権力の移行も律令制のほころびを表す。こうした中で律令制とは「当為」、すなわち建前のものとなっていく。古代における輝ける天王の像は人々が頭で考えたこうあるべき、という当為の王であって、現実にはそんなもの通用しなかった(p.33)。天皇そのものでさえ摂関政治という天皇の外戚、母系の権威から上皇による院政という父系の権威へ移っていく。太上天皇とは位官からすれば天皇よりも下のはずだが、強い権力を持つことになり、位官制はますます形骸化していったのだ(p.59-62)。この上皇は院宣による専制を行うようになる。上流貴族が介在する官宣旨は減っていくことになり、上流貴族の伝統的権力そのものも形骸化していった(p.74ff)。

初めての武家政権である鎌倉幕府の成立もこうした文脈にある。信西のつくった権門体制から平家のクーデターを経て鎌倉幕府へ至るが、この過程で天皇という王は将軍という武家の王との対比で新しい姿を取っていく(p.104)。天皇は実情の王として権力を持っているわけではない。鎌倉幕府にあっても朝廷の将軍としての認可によって鎌倉幕府の権力基盤が確立するわけではない。朝廷の認可は現実を作り出すことはなく、実情の追認にすぎない。鎌倉幕府の成立を1192年でなく源頼朝が守護・地頭を設置し実際に統治機構を成立させた1185年とする傾向もこの中にある(p.102)。征夷大将軍の任命は単なる追認にすぎないのであって、それをもって幕府の成立が「許可」されたような事柄ではない。

さて天皇は後鳥羽上皇の承久の乱(1221年)の失敗により、治天の君が臣下である武士に流罪にされ廃位されたことで、当為、権威としての天皇は力を失った。著者の見立てではここから当為の王ではなく、実情の王としての天皇の模索が始まる(p.124f)。このことが実現してくるのが、言うまでもなく建武政権の頃である。著者はそれを九条道家が目指した徳政に見る。これは鎌倉幕府成立以後の朝廷の姿、実情の王を表している。幕府は法を制定し、武力でそれを守らせるのだが、朝廷には強制力がないから、慣習、常識、道理で雑訴の興行を行った。天皇はもはや当為の王でなく、実情の王になろうとしていたのだ(p.136-149)。この記述には色々と疑問が残る。幕府は法措定暴力と法維持暴力を持ったが、この法も例えば御成敗式目であって、これは武家の中の慣習法を成文化したものだ。武家政権は朝廷と違って当為の力を持たないからこそ、慣習や常識に則る必要があるはずだ。

こうした実情の王、というより天皇による政治は南北朝合一(1392年)を持って終わる(p.193)。あとに残るのは、文化の担い手としての天皇である。科挙の制度を持たなかった日本では朝廷が知識、情報、文化を独占した。武士には文化的センスがなかったので、この分野については朝廷を頼るしかなかった(p.111f,178)。逆に言えば、天皇が政治権力を失っても生き残る役割はここにあった。戦国時代の天皇は文化と情報の担い手、「幽玄としての天皇」である(p.204-209)。だがこの幽玄としての天皇という概念は山崎正和からの借り物の概念で、よく分からない。何だかよく分からないが膨大な過去の蓄積を持つ担い手だと言っているという意味合い以上にこの「幽玄」という概念の含意があるのだろうか。

結局、王朝文化の過去遺産と情報が天皇を救ったのである(p.211)。ところが、江戸の町民文化の隆盛により、文化的情報の源たる天皇も不要となっていく。しかしここで儒教の流行が当為としての天皇を呼び起こし、尊皇攘夷論へつながっていくことになる(p.218-221)。

総じてポイントになるのは権威付けとしての天皇という点と、王朝文化の担い手としての天皇である。当為・実情という概念対は多くのものが込められすぎており、あまり機能しているようには見えない。建前のみで、権力無しで機能する権威などない。武家政権が成立した後でさえ、鎮護国家という考えに深く根ざす寺社勢力と天皇の結びつきに基づく権力があっただろう。論理的に考えるならもう少し別の観点が必要だろう。また、「なぜ生き残ったか」という問いを立てるわりには、事後的な正当化しかないように見える。偶然生き残ったのならそれはそれでよいのだが。また権門体制論や網野善彦に対する批判も(新書ではスペースがないとはいえ)拙速で疑問を持つ。意欲作ではあるが、響きはいまひとつ。
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