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井上達夫『自由論』

自由論(双書 哲学塾)自由論(双書 哲学塾)
(2008/03/25)
井上 達夫

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自分にはこの人の書くものはいつも面白い。文体や論理の運びが性に合うのだろう。この本は自由とは何かについて語られている。講義調で平易に語られているし、語る図式もすっきりしているが、論理はかなり錯綜している。著者独自の視点も多く盛り込まれているし、なかなかレベルは高い。

自由論の多くがそうであるように、本書もバーリンの積極的自由/消極的自由の区別の検討から始めている。バーリンは積極的自由の概念は「真の自我」という形を取り、ヘーゲル的に国家理念へと解消されて行ってしまうような危険性を持っているとして、消極的自由を中心に据えて論じた。積極的自由は結局、独裁者による放縦の肯定に転化する可能性がある。だが、消極的自由もまた「内なる砦」への退却という問題を持つ。これは社会において自由を実現する積極的な行動から退避して私生活に自由を求めることで、結局は悪や不平等を放置し肯定し、自由を脅かす結果に至るという危険性である。著者はこの二つの自由の隘路に経って、自由よりも秩序に話を転換する。自由を真正面から論じることをやめ、秩序の概念に転じる。
要するに、自由の理論の「野心」は権力の抑制という消極的自由の要請と、自律と自治という積極的自由の要請にともに的確に応えうるような統合的な自由の理念、しかも放縦でもなく抑圧の合理化でもない自由の理念の見出すことです。[...]このような高い要求水準を満たす自由の理念は果たして存在するのでしょうか。むしろ、自由という理念にあまり多くを期待しすぎないほうがいいのではないでしょうか。[...]自由の諸相の内的葛藤の調整と、抑圧や放縦への自由の転化の抑止は、自由の概念既定で片付く問題ではなくもっと現実的・帰納的な分析を踏まえた秩序構想によって解決さるべき問題ではないでしょうか。(p.38f)


さて秩序概念の検討に転じた著者は、その秩序を国家、市場、共同体の三組、「秩序のトゥリアーデ」(p.58)に求める。これら三つの組織はあたかも三権分立のように、お互いがお互いをチェックし抑制しあわなければならず、その三組によるバランスの上に自由は成立する。国家による集権化と暴力に対しては市場による別種の権力と、共同体による集権化への抵抗が作用する。共同体による外部排除の専制(村八分)に対しては、国家が定める人権や法といった超共同体的な仕組みと、市場による共同体外での機会の提供が作用する。市場による経済権力の行使や搾取に対しては、国家による独占禁止法を始めとする規制ルールと、共同体による相互扶助(助け合い)という契約とは異なる原理が作用する。「ここに示した秩序のトゥリアーデのような多元的均衡化こそ自由の秩序の基本条件」(p.59)である。
自由が生息しうる「よく秩序づけられた社会」は異質な秩序形成原理が競合し補完しあう社会です。すなわち、両義的・両価的相貌をもつ自由の内的葛藤を調整し、自由の各位相がもつ魅力を生かしつつその危険性を制御してゆくために、国家・市場・共同体の機能分化による総合的な抑制と均衡が必要なのです。(p.62)


この後、著者はこの三組による秩序という観点から、専制国家、市場原理、地方自治の問題を位置づけていく。国際関係においてはこの秩序の枠組みはやや変化する。著者は国際秩序について、超大国による覇権でもなく世界政府でもない「ムラとしての国際社会」を考えている。これは共同体アナキズムによる国際国家秩序であり、互いに依存しなければならないくらい弱い国家のムラである。国際秩序に対しては国家の国家としての世界政府は大きすぎて、その権力を統制するのは難しいとしてカントとともに退ける。国際秩序としては、覇権を唱えられるような超大国が存在しない国家の共同体であって、侵略や弾圧、資源簒奪など国際秩序を乱す国家に対して経済制裁など国際的ムラ八分の制裁が機能する規模が好ましいと考えている(p.96)。こうした、世界規模の統一した秩序への抵抗は同時に、著者を国際NGOの権力への批判へ向かわせている。秩序が国家・市場・共同体のバランスからなる限り、国家が世界的に統一された世界政府を持たないなら、市場、共同体がそうした体制を持ってしまうとバランスが崩れる。したがって、世界共同体の一つとして国際NGOは専制化の危険を持つと指摘される(p.98)。国際NGOが国家より強い力を持ってしまうと、国際NGOは民主的答責性(責任=応答可能性Response+ability)を持たないため、NGOの政治的責任を追求する実効的手段を持たなくなる。同じようなことは世界規模に拡大した国際的企業による活動(例えば大概の国家より規模が大きいExxonMobilによる資源開発など)、レバレッジをかけた巨大ヘッジファンドと国家の抗争(ジョージ・ソロスと東南アジア通貨危機)などに論を展開できるだろう。

さてここまでの、自由概念を秩序概念に拠って論じるというのは本書が基になった1998年の論考である。実は補講として追加された討議ではまったく別に、正義概念を基底的理念として自由が論じられている。自由の秩序が拠って立つところも、正義の概念にあると論じられる。自由は様々な定義がされるが、例えば愚行権を思い出せば明確なように、「他人の自由を損害しない限り」思うがままをなすことができる、と論じられる。自由にはこうした「但し書きproviso」がつく。そしてこの但し書きの内容は正義の概念であり、よって、自由の概念は正義の概念を基底としてこそ成立するのである。
自由の概念の規定にこのような「正義の但し書き(Justice-Proviso)」を付加することが必要不可欠なのは、正義から独立に定義された自由は自己中心性を脱却できないからです。自己の「主権性」と自由の等置の否定や他者の自由への配慮は正義から独立した自由の概念には包含されておらず、むしろ、正義の先行的制約を外された自由は自己の主権的全能化と他者支配に向かう契機を内包しています。」(p.154)


そして著者はこの正義概念を、自他の視点の反転可能性要請として分析し、「自己中心性の克服が正義概念の核心」(p.141)と位置づけている。正義概念の議論はロールズを始めとする既存の正義論を踏まえた批判となっており、またロールズ批判をもって真のリベラリズムの提唱へ至る。本論よりもレベルの高い議論となっており、ここだけではちょっと追い切れないものだ。
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