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森茂暁『闇の歴史、後南朝』

闇の歴史、後南朝  後醍醐流の抵抗と終焉 (角川ソフィア文庫)闇の歴史、後南朝 後醍醐流の抵抗と終焉 (角川ソフィア文庫)
(2013/06/21)
森 茂暁

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後南朝について書かれた文庫。後南朝とは明徳の和約による南北朝合一(1392)のあとの南朝を指している。北朝を担いだ足利氏の対抗勢力の権威付けとして、またそれ自身も抵抗勢力であった南朝だが、南北朝合一によっていきなりその旗を下ろしたわけがない。南北朝合一の後も、後南朝の人々の中には依然として室町幕府に抵抗するものもあったし、また室町幕府への新たな抵抗者はその権威付けのために後南朝を担いだのだった。後南朝の歴史はとても資料が少ない。後南朝による抵抗は系統だったものではなく、散発的に歴史の舞台に現れるにすぎない。そこで活動している後南朝の人物が誰であるのかすら特定するのは難しい。そのため、あまり研究の進んでこなかった分野と言えるが、著者はそのような文献状況の中から体系的理解を取り出そうとしている。

後南朝といっても本書は後醍醐天皇の末裔たちに着目している。後醍醐天皇以外の大覚寺統の末裔(後醍醐の兄の後二条天皇の末裔など)は本書の対象外となっている。後醍醐天皇の末裔のなかで、後南朝の歴史においてもっとも活躍するのは後亀山天皇の末裔にあたる小倉宮である。小倉宮は室町幕府と対立して伊勢に出奔したりするため目立つが、それ以外の皇胤たちは護聖院宮など幕府体制にかなり同化していた人たちもいることに注意が必要である(p.33f)。

後南朝(特に小倉宮)が室町幕府に抵抗したのは、単なる南朝の残滓というよりも、明徳の和約を主導した足利義満とそれ以降の足利政権にも問題がある。足利義満は明徳の和約にあたって、両統迭立の復活(および経済的基板としての諸国国衙領)を挙げていた。すなわち南北朝分裂以前のように、持明院統・大覚寺統から代わる代わる天皇を出すというものだ。だが足利義満は一向にこの約束を守らなかったし、それ以降の足利将軍も同様である。そもそも明徳の和約の際に、南朝側は賛成派の後亀山天皇一派と反対派の長慶上皇一派があり一枚岩ではない。約束が履行されないなか、元々の反対派を中心に不満が募っていくのは当然だろう(p.13,55)。

後南朝側の不満は足利義教の時代に大きく噴出する。足利義持が1428年に死去するが、この年は重要である。「政治的には南北朝合体ののち構築された支配体制の枠組が大きく揺るぎ、混沌とした時代へ突入するきっかけをなす重大事件がたてつづけに生起した」(p.129)のだ。足利義持は死去に際し、意図的に後継者を指名しなかった。そこで幕臣たちが何とクジ引きで将軍職を決定する。候補者はいずれも義持の兄弟だが、みな出家していた。かくしてクジで当たった義円が還俗し、義宣と改名、のちに義教と改名して将軍に就任する。この時、朝廷では称光天皇は危篤状態。幕府・朝廷の力が弱まっている時に暗躍したのが、鎌倉公方の足利持氏である。もともと室町幕府と鎌倉公方は成立の当初から緊張関係にある。この機を捉え、後南朝の小倉宮は1428年7月7日の夜、居所の嵯峨より突然姿をくらます。彼は伊勢に辿り着き、足利持氏の誘引を受けて反幕府の挙兵に出た北畠満雅にかつがれる。ただしその挙兵は実際には鎌倉の支援を受けることなく、反乱は鎮圧された(p.123-146)。

こうした流れを受けた足利義教が、後南朝を危険勢力と見たのは当然だろう。彼は後南朝の断絶を目論むことになる。両統迭立は鎌倉時代後期からの伝統であり、足利義満でさえその伝統の呪縛の中にいた。「この呪縛から解放され、一転して南朝根絶の方針を打ち出したのが、他ならぬ足利義教であったといえるのである。こうして南朝皇胤は政治的に生きる道を閉ざされた。ようするに、鎌倉時代に始まった、二つの皇統間の長期にわたる皇位争奪戦はこうして終局に向かうことになるのである」(p.159)。

さてこうして後南朝は終わるのかといえばそうでもない。その後も反幕府の各勢力と後南朝の皇胤の結びつきの噂は絶えない。しかしそれは噂であって確たる歴史的証拠を欠いている。著者はわずかな資料の中から、そのような後南朝の影を読み取っている。例えば、嘉吉の乱(1441)で赤松満祐は足利義教を殺害した後、播磨に逃れる。この時、赤松は足利尊氏の子直冬の孫義尊を担いでいる。いわば足利義尊を新たな将軍候補として権威付けを図ったのだが、ここに後南朝、小倉宮聖承の未子を播磨に奉じたという記事がある。新たな将軍のみならず、新たな天皇候補として担いだわけだ(p.170)。また、禁闕の変(1443)という、源尊秀を首謀者とする一派が内裏に乱入し、三種の神器の神璽・宝剣を奪い去るという事件があった。三種の神器と天皇の正当性といえば、南北朝時代にさんざん問題となったものである。このうち宝剣はすぐに見つかったが、神璽は奪い去られたままとなる。この源尊秀という人物は後鳥羽院の皇胤とされている(p.185f)。そして長禄の変(1457/58)において、赤松の遺臣が南朝皇胤の一宮、二宮を吉野の奥地である北山・川上で殺害し、神璽を取り戻すこととなる。

長禄の変での一宮・二宮殺害をもって後南朝は終わったとする向きもあるが、後南朝はそこで断絶したわけではない。それ以降でも後南朝は史料に足跡を残しており、なかでも応仁・文明の乱の最中にもっとも光彩を放っている(p.232)。すなわち、応仁・文明の乱での山名持豊の権威付けに後南朝が担がれる。足利義政・土御門天皇をバックに付けた細川勝元に対抗して、山名持豊は将軍の弟である足利義視と、南朝皇胤をもってしたのである(p.235f)。この時期、南朝皇胤が吉野で蜂起したという記事も見える。山名持豊率いる西軍が「南帝」として担いだのは、おそらく小倉宮流であり、岡崎前門主の子息とされている。

後南朝について見られる最後の史料は1479年、小倉宮流の「南方宮」が越前国に移ったという記事である。
後南朝の歴史はこうして途絶える。後醍醐流皇胤を擁しての、室町幕府体制への抵抗はここに終焉を迎えるのである。後南朝史を敗者の歴史とみなすことはむろん可能である。しかし、同時にそれが厳然たる歴史の現実であることも認めないわけにはゆかない。遠く時空を超えて、後南朝にまつわる問題が突如近世・近代社会に生起するとき【典型的には熊沢天皇問題を指す】、それはもはや近世・近代に起因する問題であるとみる方があたっている。(p.243f)
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