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井上達夫『世界正義論』

世界正義論 (筑摩選書)世界正義論 (筑摩選書)
(2012/11/13)
井上 達夫

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世界正義(Global Justice)について、その理論的な可能性を探ったもの。世界正義は国家内を始めとする、単一の社会の中における正義とは別の難しさがある。例えば国家内であればある程度の文化的共通基盤があるし、法制度を始めとする強制力もある。世界正義においては、大きく異なった複数の文化があり、また(現状では)強制機関もない。著者はそうした困難な議論状況の中で、決して世界正義の成立を諦めることなく、様々な論者の見解を検討しつつ可能性を探っている。本書は専門的な議論をしているが、根本的なところから論を立てているので、この領野に詳しくなくとも読める。なお、世界正義論であって国際正義(International Justice)論でないのは、単に国民国家間(inter-nation)でなく、多国籍企業と世界経済、国際NGOなど国家以外の場面でも正義が論じられるからである。

著者は世界正義についての二つの極論の間を縫っていく。一つは国境を超えた正義など無いとする価値相対主義であり、もう一つは自国が正義と考えるものを他国に強制する覇権的正義である。前者の価値相対主義は、著者によれば倫理的自己欺瞞に陥っている(p.18)。それは、国境の内側の人々に対してなされれば不正義だとするものを、国境の外側の人々になされれば不正義ではないとし、その差別を行うことは正義に適っていると主張する。これは価値相対主義という主張そのものが価値相対であるとして切り崩されるというおなじみの批判と捉えることができよう。覇権的正義については、著者の舌鋒は鋭い。これは典型的には、「中東に民主主義をもたらす」としたアメリカのイラク侵攻を考えている。著者はアメリカが自国利益を優先した結果の正義の二重基準を厳しく指弾する。アメリカはイラク・アフガニスタンへの侵攻で3兆ドルを超える軍事費を使っているが、その一方でFAOによる飢餓削減への支出を渋っている。イラク侵攻で支出した軍事費のわずか10日分ほどであるのに。これは「自国権益を優先させる二重基準的恣意という、正義理念の蹂躙」(p.54)である。こうした議論状況から、世界正義という理念をまともなものとして救い出さなければならない。なお、正義の理念そのものは本書の直接的な議論対象ではなく理解を前提としているが、手短に言えば自他の位置および視点の反転可能性であるとされている(p.55,127)。

世界正義を論じる視座として、著者は5つの問題系を拓いている(p.33-48)。(1)メタ世界正義論。世界規模での正義を論じることがそもそも意味のあるものかというメタ議論。現代の法哲学では、国内正義との別の基準を世界正義に適用したロールズの見解が注目されており、これを論駁することが主眼となっている。(2)国家体制の国際的正統性。ある国家が他の国家によって承認されるための根拠は何か。世界正義は国際正義ではないとはいえ、世界正義の適用場面においては国家というプレイヤーが圧倒的に重要性を占めている。文化や人権への考え方が違えど、国家として相互承認する根拠を探る。(3)世界経済の正義。主に世界規模での分配的正義を巡る論点で、貧困国を救済する義務、植民地主義等の歪みを補正する義務などの根拠が問われる。(4)戦争の正義。戦争に訴える正当性を巡るもので、近年では人道的介入の可能性として匡正的正義の問題として新たに浮上している。(5)世界統治構造。世界正義を実現するための国家間構造について。少数の国家が覇権を得るのではなく、かと言って不正義をなす国家に対して何の手立てもない国家間構造でもない世界秩序とはなにかについて。著者の見るところ、これら5つの問題系をバランスよく検討することが世界正義論には必要である。例えば(2)について市民的政治的人権の保障をしない国家は正統性がないとして、直ちに・短絡的に(4)国際的な強制介入が正当化されると考えるのがネオコンであるし、まったく逆に(2)市民的政治的人権の保障を国家の正統性から外してしまい、(4)強制的介入の不正義を説くのがロールズの「節度ある階層社会」である(p.49ff)。

ここから先はこの5つの問題系に従って著者は微に入り細に入り有力な議論を検討していく。印象に残った議論だけをピックアップしておく。まず、国家の正統性については3つのポイントを挙げている(p.135,155)。(1)まず正統性と正当性の概念的区別の上で、正義を志向している体制であることが正統性を生む。そもそも正義を志向していない国家は正当性を持っても正統性を持ち得ない。(2)正義志向性の制度的保証には統治者と被統治者の反転可能性と、少数者の保護が必要(勝者と敗者のフェアプレー)。統治者が正義を志向しなくなった場合にそれが被統治者によって修正できること。(3)正義志向性に含まれる基幹的人権保障は、国内的だけでなく国際的にも国家の正統性をなす。国内に不正義を修正する仕組みがあるからこそ、国際的には不介入が求められることになる。

また、世界経済の正義についてはトーマス・ポッゲの制度的加害是正論を中心に検討されている。それは、世界貧民の原因の重要な一部は先進国諸国が押し付けているグローバルな世界経済制度にあり、先進国はこの制度を媒介とした世界貧民への加害を是正する匡正的正義上の責務を追っているとするものである(p.194)。こうした制度的加害是正論は途上国の自己責任にすべてを負わせるものでもなく、かといって先進国に自らの範囲を超える義務を負わせるものではない。それは途上国・先進国お互いの責任を分離し、自己責任に帰せるものがあるからといって制度的加害を否定する欺瞞を除去するものである(p.242)。ただし著者はポッゲの議論を諸手を挙げて歓迎しているわけではなく、先進国の積極的支援義務を合わせることにより、世界経済の正義をより強化しようとしている(p.243-249)。

さらに、戦争の正義について、戦争原因の正・不正が区別しうる/し得ないという差別化/無差別化の視点と、戦争は政治の道具として結果が良ければ良い/結果がどうあれ戦争は許されないとする手段化/非手段化の視点から、戦争の正義論を4類型に分類する考え方が目に止まった(p.281f)。その中で絶対平和主義(ガンディーやルーサー・キングなどの絶対非暴力主義)は無差別化・非手段化として位置づけられている。これは一般的に無力な正義観とされるが、相手と絶対的な軍事力の差がある時にはむしろ政治的に有効(自分の弱者性を強調すること)であるとされている(p.294f)。

世界統治構造については中途半端なサイズの国からなる諸国家のムラが結論となっていて(p.376f)、これは他書ですでに読んだところである。その中では国際NGO批判の一環で、女子割礼は文化的アイデンティティと身体の自由の問題ではないとする批判が目を引く。こうした考えは市民的、個人的人権保障しか見ていない。女子割礼なくして女性がまともに生活できる社会を作ることが大事なのであり、社会経済的人権保障が必要だと説いている(p.347ff)。

最後に。世界正義を論じることは単なる法哲学上の言葉遊びではない。いかに議論の正当性を訴えても実際は覇権的国家に左右されてしまう。それでも法哲学の意義について、著者は以下のように語る。
世界の心は一つではない。様々な利害が対立し、さらに、かかる利害対立を構成に調整する価値原理、すなわり正義についての人々の判断も様々に分岐し、鋭く対立している。この対立を解決するのは容易ではない。永遠に不可能かもしれない。しかし、世界正義をめぐる思想の対立が持続する中で、日々厖大な数の人々が貧困にあがき、苦しみ、死んでいる。この状況に対して哲学は無力に見えるかもしれない。「哲学の貧困」を嘲笑するマルクスの声が地下から響き渡ってきそうである。しかし、哲学にできることがある。問題を隠蔽し、問題に対する我々の責任感覚を麻痺させ、問題を再生産する世界の現実をまことしやかに合理化する諸々の欺瞞を、哲学自体の欺瞞をも、批判的に剔決することである。見たくない問題を直視し、問題を解消せず解決しようとする我々自身の知的廉直性と倫理的誠実性の回復を試みることである。(p.267f)
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