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井上達夫『現代の貧困』

現代の貧困――リベラリズムの日本社会論 (岩波現代文庫)現代の貧困――リベラリズムの日本社会論 (岩波現代文庫)
(2011/03/17)
井上 達夫

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『現代の貧困』というタイトルだが、ここでいう貧困は経済的貧困のことではない。それは思想的、文化的な貧困のことだ。日本は戦後の経済成長で生活は経済的に豊かになったが精神的に貧しいままだという言辞はよく聞かれるが、本書が言う貧困はこの後者の貧困である。なかでも、現在の日本において自由や民主主義を制限するような様々な狭隘感、閉塞感について、著者のリベラリズムの観点から時評したもの。トピックとして挙がっているのは戦後の象徴天皇制、過労死を生み出すような会社本位主義、そして55年体制の政治にあるような合意を重んじてばかりで決定できない日本の意思決定システムについて。特に、象徴天皇制を巡る議論は個人的にも首肯できるものが多く、こうした議論に感じる何となくの「気味の悪さ」の正体が分かった。それは日本社会が時にもたらす暗黙的な同調圧力だ。思えば東日本大震災の後もテレビCMが全部ACに変わったり、遠く九州での九州新幹線開業イベントが中止になるなど「自粛」の嵐が吹き荒れたし(著者が記す昭和天皇の崩御前後によく似ている)、「絆」というキーワードで気味の悪い同調圧力が蔓延し、辟易とした。

著者のいう現代の貧困とはなにか。現代日本社会は生活の質が高く、質の豊かさはあるかもしれない。しかし著者が言うところ、そこには関係の豊かさがない。それは「多様な生の諸形式が交錯し、衝突し、刺激し合い、誘惑しあうことにより、互いの根を深め、地平を広げあうような豊かさ」(p.65)のことである。それは何よりも多様性がもたらすものであり、均質化された社会にではなくて、異文化を排除せず共生していくような社会にある(p.120-123)。均質な社会はダイナミズムに欠けるし何より面白みがない。異質なものを認め、他人の個人権を尊重することは必ずしも社会を超個人主義的なバラバラなものにしてしまうわけではない。それは他人を他人として尊重することであり、逆に社会を豊かにして発展させるもの考えなのだ(p.192f,227f)。

質の豊かさを得た日本にはこうした多様性が欠けている。我々の生は経済の優位のもとで貧困化されている(p.276)。関係の豊かさが欠けているとはいえ、著者は何か「人生とはこうあるべき」という理想像を示そうとしているのではない。公式的な人生の理想を示そうとすることこそ、多様性を排除するものであり生を貧困化するものだ(p.xvi)。むしろこうした豊かさはそれぞれが獲得するものであって、必要なのは「自律的な価値生成力」(p.xiii)である。

こうしたテーマの根本にはリベラリズムがあることは明白だろう。リベラリズムの根本理念は多様な自律的人格の共生(p.25)なのだから。リベラリズムは民主主義が必然的にもたらす、同調圧力に抗する原理となる(p.76)。生の均質化に対抗して関係の豊かさ、多様性を確保する拠り所こそ、リベラリズムなのだ。

戦後の象徴天皇制について言えば、天皇制を巡る言説の中に同調圧力があることが感じ取れるだろう。象徴天皇制は奇妙な制度だ。それは王権のように上から押し付けられるものではない。あくまで国民の合意に基づいて、その象徴として設けられている制度である。すなわち、国民があって天皇があるわけで、その逆ではない。象徴天皇制を支える原理は、こうした「下からの天皇制」、ボトムアップの天皇制である。民主主義と調和しうる象徴天皇制の原理はここにある。著者はこの仕組を、元号法制化の民衆運動に見るし、また(戦前だが)津田左右吉の天皇論にその萌芽を見ている(p.46-59)。この象徴天皇制の位置づけは明確で参考になる。

こうして、戦後の天皇制は民主主義には両立する余地がある。だが著者はここにリベラリズムをぶつける。著者が問題視しているのは愛国心そのものではない。その強制と同質社会的不寛容の蔓延である(p.324)。端的に言えば学校教育における国旗国歌の強制がそれに当たる。個人や集団が天皇を敬うことや、もう少し広い意味で愛国心を持つことに問題はない。ただ、それが他人に対して強制されたり、意見を異にする他人に対して不寛容であることが問題なのである。象徴天皇制は異質性を不可視にする同質社会的統合と結合している。その限りにおいて、象徴天皇制はリベラリズムと相容れないものである(p.86ff,101)。リベラリズムの観点からすれば、天皇自身が基本的人権を制限された大衆民主主義の犠牲者(天皇に職業選択の自由があるか?)だという論点(p.82-85,322)は置くとしても、天皇を「象徴」として日本的なものを代表させてしまうのは「我々の弱さ」(p.91)である。それは法の支配を根本として多様な他人と向き合う勇気の無さであると批判されている(p.124ff)。

著者はリベラリズムの原理に基づき、その内容を行くとこまで突き詰めている。天皇制に対する明確な言説はその一端である。こうした言説は、悲観するためでなく、自己を知り自己改革をなすためにある(p.325)。異なる意見があれば相手を尊重した上で、議論をすれば良い。それを「場の空気」を乱すとか、不謹慎だとかという理由で一概に拒否し不寛容であることはまさにリベラリズムに反することになろう。

グローバル化のなかで日本社会も(ようやく)多様化してきている。こうした中で我々が必要とする考えこそ、リベラリズムかもしれない。戦争責任を巡る問題や、原子力発電所を巡る問題では特に不寛容な態度を見かけるが、それはリベラリズムへ向かう流れのバックラッシュかもしれない。個人的にはそうあって欲しい。
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