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井上達夫『普遍の再生』

普遍の再生普遍の再生
(2003/07/25)
井上 達夫

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過去をヒステリックに否定するか、過去をファナティックに賛美するか、過去に全く無関心であるか、この退屈な場末の映画館の三本立て興行も、そろそろ打ち上げにしよう。我々の原寸大の過去と、背筋を伸ばして向き合い、謙虚さと厳正さとをもって、対決し、対話しよう。いまからでも遅くない。我々のかけがえのない過去に対して、本当に責任ある態度を取ろう。(p.59)


『普遍の再生』というタイトルを持つ本書で著者は、自身のリベラリズムの法哲学に立脚しながら、激しく意見が対立し時には感情的ですらある論争に切り込んでいく。こうした領域では意見の対立の鋭さから、合意の可能性が疑われる。だが著者はそのような状況の中でも決して諦めずに、論争のなかに「普遍」を見出そうとしていく。その姿勢は著者自身も自嘲するようにドン・キホーテ的、あるいは道化師的(p.302)かもしれない。リベラリズムを徹底する著者の姿勢と主張に親しみを覚える自分としては、一種の爽快感を持つとともに、思想を突き詰めていくことの迫力を感じる。

扱われている論争の舞台は多岐にわたる。昭和天皇の戦争責任、オリエンタリズム批判、多文化主義、フェミニズムなど。なかでも、昭和天皇の戦争責任に言及し、右翼団体の銃撃を受けた本島・長崎市長とそれを巡る言説から論が始まる昭和天皇の戦争責任論は強く印象に残ったものであり(必ずしも著者の見解には賛成するわけではないが)、以下ではそれについて中心的に記す。

日本には戦争責任どころか天皇については不思議な力が働いている。それには人々を引きつける不可抗的引力であったり、天皇にまつわる批判や議論を許さない逸脱恐怖的自粛がある(p.5)。第二次世界大戦における日本の戦争について、昭和天皇の戦争責任を問う際にもこうした力が大きく働いている。著者の論点は案外に単純、いやむしろあまりに明確なものだ。それは、日本人は第二次世界大戦のことを考えるときに対米戦争の敗北のみを考えているという論点である。昭和天皇の戦争責任について論じる際、多くの論点は昭和天皇が終戦を早められたのではないか、それによって対米戦争による沖縄戦や各地の空襲、原爆の被害などによる国民の被害を減らせたのではないかという観点で語られている。だが著者によれば、こうした論じ方はアジア侵略の責任を無視しているという不備のある議論である。というのも、①対米戦争は日中戦争の延長線上で起こっているのだから、対米戦争における責任は日中戦争における責任を問わずして問うことはできない。②対米戦争の被害者として責任を追及する権利は、アジア各国に対する侵略の加害者としての責務と一体であり、いわば義務を果たさずして権利のみを主張することはできない(p.23-25)。アジアへの侵略責任を考えれば、昭和天皇に道義的・政治的責任(国内法的な責任ではない)があったことは自明であり、問題はなぜ多くの日本人がそれすら否定したがるか、である(p.39f)。

昭和天皇の戦争責任についての著者の議論は、こうしたアジア侵略の責任者としての昭和天皇という観点から、様々な戦後責任論を批判していくものとなっている。なかでも考えさせられるのは、自分も戦争に参加した点で責任を負っているのであり、そうした人物が昭和天皇の責任を追及する権利はないという、自己批判的意見についてである。これは一見、誠実な態度に見える。しかし日本国外から見ればこれは単なる共犯者の間の馴れ合いの寛容に他ならない。自らもその一端を担っている侵略責任と、昭和天皇のそれを相殺することなどできない。逆に、まさに侵略加担者としての戦争責任の一部として、昭和天皇の責任を追及する責務がある(p.53)。

確かに第二次世界大戦における日本の戦争において日本国民が倫理的・道義的にどうであったかの言説が、多く対米戦争の敗戦を語っているのは、それなりの理由がある。個人的に考えるに、端的に言えば、日本にいて対米戦争の被害者としての記憶を持つ者の方が、外地に出征して加害者としての記憶を持つ者よりも多いからだろうか。戦争の国民的記憶は、対米戦争に大きく傾いているのだ。そもそも「太平洋戦争」という言葉自体がその状況を表しているのではないか。著者はこうした、アジア侵略を忘れ、対米戦争の敗北のみ考えている姿勢について、「倫理的自慰」(p.43)という苛烈な言葉を投げている。例えば特攻隊というシステムを作り、多数の国民を不要な死に追いやった政治的決断・軍事的戦略の愚や責任をまったく不問にしつつ、ただその隊員の悲哀のみを描いてみんなで涙するという不思議な映画が先ごろヒットしたが、これこそそうした集団的自慰の典型であろう。この事例に自分が感じた気味の悪さ、吐き気はおそらくこうしたところから来る。個人的には特攻ではなく特高と治安維持法や「空気」の弾圧に負けず、不正なものは不正と主張し続けたような反戦者の方がヒーローだと思うが、そうしたものはいまの日本ではほとんど話題にならない。

なお以上の昭和天皇の戦争責任論は、したがって昭和天皇は戦犯であり東京裁判で裁かれるべきだった、等の主張を意味していない。責任があるということと、それがどう裁かれるべきかは別の問題である。それは自発的な退位とか、謝罪の言葉とか、単に悔恨の気持ちを持つとか、各人に様々な思いがあろう。「天皇の戦争責任を問うことを、直ちに「戦犯扱い」とみなす、天皇崇拝者によく見られる戦略的な偏狭さ」(p.42)がここにある。

こうしたアジア侵略の責任論は論争が多く、難しい。戦争責任論はドイツはできたのに日本はダメだとか、戦後統治においてアメリカから押し付けられた自虐史観が云々という問題ではない。戦争責任が困難なのは日本だけの問題ではない。責任意識の抑圧は国民自身の自己確認欲求・自己肯定欲求と結合していて、日本のみならず克服は難しいのである(p.61f,68f)。とはいえ、みんながやっているから自分は悪くないという道理は通らない。大切なのは客観化とそれに基づく批判なのである(p.68f)。

「日本だけが悪いんじゃない」と主張するためにこそ、「日本も悪かった」ことを、我々は率直に、ときには率先して、認めるべきなのである。(p.34)



昭和天皇の戦争責任以外の論考として感銘を受けたものは以下。西洋中心主義を批判しようとしてまったく別種のアジア的価値を主張することにより、オリエンタリズムの枠組みにはまってしまうというアジア的価値論の批判。著者の戦略は自由や人権の概念を普遍的なものとして、(出自はどうあれ)西洋中心主義から解き放ち、アジアにもそうした概念の受け入れ余地が十分にあることを示している(p.116-123)。

また多文化主義についての議論では、リベラリズム、ナショナリズム、多文化主義の三つを比較しているのが理解に役立つ。つまり、アイデンティティの基礎単位が個人性であるのがリベラリズム、民族性あるいは国民性(nationality)であるのがナショナリズム、エスニシティであるのが多文化主義として位置づけられる。この位置づけからすれば明らかだが、多文化主義はいわばミニナショナリズムとして捉えられ、エスニシティとナショナリティの間に存在論的断絶はないという結論に至る(p.186-196)。

フェミニズムとリベラリズムの議論も面白い。リベラリズムの元祖ミルは公的領域と私的領域を明確に区別し、政治が関わるのは公的領域のみであると主張したことで、私的領域(フェミニズムから言えば家庭内で低くされている女性はこの領域にいる)を神聖化したと言われる。著者はミルの原典を注意深く読み解くことにより、ミルが必ずしも私的領域を神聖化しているのではなく、また彼にもフェミニズムと調和できる論点があることを示す(p.216-222)。また、こうしたミルの議論から発するリベラリズムの公私二元論を、法による干渉の領域と正義による干渉の領域として解釈している(p.227-230)。つまり例えば家庭に法は入らないが、家庭外の人間がなんら口出しできない神聖な領域ではなく、正義という観点から不正があれば関わっていくべき領域である。
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