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檜垣立哉『ドゥルーズ入門』

ドゥルーズ入門 (ちくま新書)ドゥルーズ入門 (ちくま新書)
(2009/04)
檜垣 立哉

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主にガタリと協働する前のドゥルーズについて、特に『差異と反復』と『意味の論理学』という二つの重要な著作にフォーカスしてその思想を読み解こうとした本。この二書の位置づけと、そこからガタリと協働した後の思想との違いについては、きちんとした視点を持っていて参考になることは多い。

冒頭は主にベルクソン、ニーチェ、スピノザからドゥルーズの初期思考や通奏低音となる考えをたどっている。ベルクソンの持続と過去の話からドゥルーズの潜在性の概念へのつながり(p.43-57)は、もっとも分かりやすいところだろう(ただしベルクソンを読んでいないと何も分からない)。続いて1960年代後半の二つの著書の話に入る。ここでのメインテーマは「発生」と捉えられている。この議論はカント以降に脈々と哲学において続けられ、1960年当時のフランスでも現象学を中心に(ベルクソンでも)大きな潮流だった。経験や現象を可能としているものから、それらがどう成立してくるかを示すという超越論的発生論である。『差異と反復』と『意味の論理学』の違いは、後者に現れる高所・表層・深層の三つ概念を使って語られている。『差異と反復』が主に述べるのは、表層(超越論的領野)から高所(現象)の成立であり、これは静的発生と呼ばれる(p.70)。なかでも、個体化を導く未規定な「理念」についての記述はよく書けている(p.96-105)。

一方、『意味の論理学』では器官なき身体や分裂症に仮託して語られるのは、深層の世界である。深層から表層と高所が発生してくる動的発生がここで問題となる(p.128)。つまり、『意味の論理学』は「身体と言語とをテーマとし、パラドックスの装置に依拠しながら、『差異と反復』で描かれていた発生論を、動的な深淵から捉え返す試み」(p.177)である。ガタリ以降のドゥルーズはこうした深層を更に論じていくわけだが、そのことは機械や器官なき身体といった、それ以降の重要な概念が『意味の論理学』に現れることでも分かる。

ガタリとの協働を始めたドゥルーズの思想を著者は「転回」として捉える。それは何よりも、『差異と反復』『意味の論理学』にあった発生論の放棄である。その代わりに語られるのが、機械性や平面性、発生論ではないコード化論である(p.202-204)。こうした発生論を放棄したドゥルーズは我々の経験や現象に至る垂直的な発生については語らない。代わりに、そうした経験や現象が単なる副次的事象でしかないような機械のアジャンスマンについて語られることになる。ここで面白かったのが、この転回にドゥルーズの文学論が関わっているという指摘(p.179)だ。著者は特に、『プルーストとシーニュ』の改訂版における書き換えにそれを見ている(p.184f)。日常的な現象を突き破り、垂直的な発生論を打開する道を、芸術の力能が拓いていく(p.203-207)。この芸術論の位置づけは参考になることが多い。

さて。この本は入門書と言いつつ、ドゥルーズの概念を無批判的に使いすぎではないだろうか。著者は渡辺二郎のハイデガー本のドゥルーズ版、哲学の脱神秘化・通俗化を目指した(p.211)と書くが、それならば概念をきちんと説明して位置づけないと解説にならない。多くの概念が何の説明もなく使われる。ドゥルーズの思想にある程度、馴染んでいる人間にはそれらの概念間の位置づけとして読めるが、そうでなければほぼ何も分からない本だろう。ドゥルーズの思想の通俗化とはかなり遠いと思われる。例えば存在の一義性について、後期のドゥルーズでは平滑空間、リゾームに当たるものとするが、これらはだいぶ適用される領域の違う概念である(誤解を恐れず言えば、カテゴリが違う)。また、例えば次の二つの文章。
一義性とは、階層性のない、バロック的多孔空間のことである。一義性とは、中心がないことによって、あらゆる場面が等しく分散した中心をなしている空間性のあり方である。(p.62)

一義性とは空間なのか?空間性のあり方なのか?そもそも、空間のあり方ではなく、空間性のあり方とは何のことか?空間のあり方なら例えば曲率などのパラメータでの特定、あるいはどんな空間と同型となるかによって特徴づけることができよう。だが空間性のあり方とは何のことか。この文章がまだ「~等しく分散した中心をなしているというあり方をしている空間である」なら、球面とかトーラス面を思い浮かべて少なくとも第一文との整合性は推測できる。万事、こうした調子なのであまり細かく付き合っても仕方ない。ドゥルーズ自体がこうした自由な言葉の使い方をするが、解説する人間が同じようにしても仕方ないのではないか。

以下の残りは自由連想である。『差異と反復』における無限大と無限小の議論がある(p.72-85)が、数学を多少とも知っている人間にとってはチープすぎる。無限大についての19世紀以降の数学の発展について触れられているが、議論自体はヘーゲルの話であり、この議論なら集合論は必要ない。カントールが革命的であったのは、無限回の操作の結果を再び操作の対象とできること(→無限タイプの導入)と、そうした様々な操作による無限の間に算術(超限算術)が定義できる、という点にある。この本で論じているような単なる有限と無限ではなく(まして有限を脅かす無限のようなものではなく)、無限にも多くの無限があり、例えば連続体濃度や可算無限の違い、到達不可能基数や可測基数などのモデル論上の違いなど興味深い論点がたくさんある。さらに言えば、これがドゥルーズがライプニッツを引き継いで語っているにせよ、無限小について関数のグラフまで持ちだして論じるならば無限小の概念にまつわる困難を数学史でフォローしないのは問題外だ。ワイヤーシュトラウスやコーシーが何を考えたのか、それがドゥルーズの無限小概念の使用にどう関係するのかを論じる必要がある。また、ロビンソンやネルソンの無限小解析の現代的な定式化まで目を配る必要があるだろう。こうした議論なしに無限小を語るのは、天動説に基づいて現代宇宙論を語るとか、エーテルの存在を仮定して現代物理学を語ってるに等しい議論だ。無限小の概念を大手を振って使用するには、大きな説明責任を果たさなければならない。きちんと考えられる人がいないものか。
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