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ライダー・デュー『ドゥルーズ哲学のエッセンス』

ドゥルーズ哲学のエッセンス―思考の逃走線を求めてドゥルーズ哲学のエッセンス―思考の逃走線を求めて
(2009/05/22)
ライダー デュー

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主にドゥルーズの中期思想、具体的にはガタリと協働した『アンチ・エディプス』『カフカ』『千のプラトー』あたりを中心に解説した一冊。中期が中心だが、前期の個々の哲学者について書かれた期間や、後期の映画論やバロック論などの芸術論も触れられている。記述はドゥルーズが何をしようとしたのか、それが他の思想とどう関わるのかについて冷静・客観的に押されられていて、ドゥルーズ解説本としてはかなりまともで読みやすい一冊。

序ではドゥルーズの思想の原理として内在の原理を(表象の原理との)対比で示す。また、ドゥルーズの思想を当時のフランス哲学の流れの中で概観している。そこでは哲学者研究の位置づけ(日本ではあまり知られていないゲルー、ゴールドシュミット、ヴュイエミンといった名前も)や、デリダやフーコーと言った他の思想家の流れにおけるドゥルーズの位置づけは参考になる(p.26-42)。

ドゥルーズの思想を貫く視点として、内在の原理が述べられている。内在の原理に対するのが表象の原理であって、それは世界を個人的主観に対立者として描き、概念によって論理的に考えるものだ。これに対して内在の原理では、世界が経験のうちでそれ自体立ち上がってくるさまを描くことになる(p.21-23)。表象の原理におけるように思考と対象という図式を用いるのではなく(典型的にはカントやフッサールがそれに当たる)、これらの図式を仮定しないもっと抽象的なレベルで問題を捉える。我々が経験について考えるときに自然に取り入れてしまう観点とは違い、現実についてはるかに抽象的な観点を創りださなければならない。著者はここでプラトンの観念論、イデア論との近さという論点を取り出している(p.50-56)。「ドゥルーズは、現実を表象によらずに記述できる抽象性の次元に到達しようとするために、プラトン哲学のいくつかの特徴をみずから反復することになる」(p.52)。

初期の哲学者本や『差異と反復』『意味の論理学』などの形而上学から、中期の社会学的政治的研究への結びとして、文学テキストにおいて記号と意味作用の問題を研究することが置かれている(p.103f)。著者は文学テキストが哲学の問題になる理由を説明している。それによれば、特にモダニズムの物語文学は、単に物語を提起するのでなく世界について思考する形式的な関係を提示し、超越論的機能を果たしている。物語文学によって、日常的な実践や自己意識による経験とは調和しない経験や問題、新しい視点を提示できるのだ(p.105-107)。ドゥルーズの記号論は観念論でも唯物論でもない。意味はそれが指示する事物から独立しているが、関連したものであってデリダやソシュールのような意味の領域だけで独立しているという観念論を取らない。政治的な領域においてもこの記号論は同様に適用されている。社会的現実は下部構造に裏付けられるイデオロギーではなく、意味として現実そのものとして扱われ、唯物論でもない(p.113-118)。

『アンチ・エディプス』の解説はとてもよく書けている。ドゥルーズは精神分析のメタ批判を行うことから、個人と主体というカテゴリーそのものの存在論的批判へ導く。著者はこの批判を超越論的、唯物論的、系譜学的批判と位置づけている。欲望をその背後の構造に還元することなく、反省に基づかず、欲望の生産を語ることである(p.169-173)。とはいえ、ここで超越論的という言葉を使うのはやや誤解を招くように思われる。

『アンチ・エディプス』から『千のプラトー』への移行については、『アンチ・エディプス』にあったエディプス的主体とノマド的分裂症的主体のロマン主義的二元論からの脱却を挙げている(p.204-208)。資本主義社会において、欲望はエディプス的主体という形で定式化され、自ら欲望の抑圧を行う。そうでない道はスキゾフレニアという形での完全な解体である。『アンチ・エディプス』は「資本主義に抵抗することができる実際的な戦略の道を閉ざしている」(p.205)。こうした道は機械の概念によってもたらされる。機械の概念が新しい世界との関わりと主体の概念を示し、『アンチ・エディプス』のロマン主義的二元論を弱めると記している(p.248f)。だが、その『千のプラトー』については、テキストを相対化した解説ではなく、いまひとつ明確ではない。『千のプラトー』は多くの観点が錯綜し読みにくいが、具体例も多く含んでいるため、それらを取り上げて解説したほうが、テキストの複雑な観点を抽象的に提示するよりよいのではないか。

後期のドゥルーズについては美学・芸術的なテキストの中に思想を見出していく試みと捉えられている。「ドゥルーズの晩年のすべての仕事は、感覚的な関係のうちに埋め込まれた思考の論理を定義しようとする営みとして解釈できる。[...]この時期のドゥルーズは、芸術を感覚媒体に埋め込まれた思考と考え、哲学を芸術に類似した形式的な構築の営みと考えるようになる」(p.270)。バロック建築、ベーコンの絵画、そして映画を読解するドゥルーズが示すのは、美学を中心として現れる、意識や行為者責任主体とは異なる主観性の概念であり、生成の主体なのである(p.287-291)。

総じてドゥルーズの解説本のなかではかなり分かりやすい方に入る良書と思われる。なお一点だけ、「仮想性」という訳語が気になる。これはvirtualitéの訳語で、おそらくアリストテレスの用語のデュナミスを潜在性としたので、仮想性の訳語が当てられているのだろう(p.84f)。だが、virtualitéは決して仮想性、つまり「仮のものとして想定されたもの」ではないだろう。それは仮のものでもないし、想定されたものでもない。認識はされないが現に動いているものである。virtualité(英語でvirtuality)を仮想性と訳すことが人口に膾炙したのは、IT用語でvirtual memoryを「仮想メモリ」と(日本IBMが)訳したのがきっかけとどこかで聞いたことがある。これを端として、virtual realityは「仮想現実」だし、virtual PCは「仮想PC」だ。個人的にはこれは端的に誤訳だと思っている。virtual memoryは「仮にメモリとして想定されたもの」ではなくて、実体は半導体でなくディスクかもしれないが、メモリとして同等に扱われるもののことだ。つまり、その力動virtuの点から言えば(アプリケーションからアクセスする際には)メモリに他ならないもののことであり、virtualは「実質的」の意味合いに近い。
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