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神野志隆光『古事記と日本書紀』

古事記と日本書紀―「天皇神話」の歴史 (講談社現代新書)古事記と日本書紀―「天皇神話」の歴史 (講談社現代新書)
(1999/01)
神野志 隆光

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なかなかよい本だった。テキストそのものとしての古事記や日本書紀を読んでいこうとする意欲は素晴らしい。ただ、以前の記紀読解に対する批判が勢い余ってしまうところがある。

古文を扱う本としては読みやすい。著述の順序が年代を前後するので少し混乱を招きかねないが、最後のまとめがしっかりしているので問題ないだろう。多くの人に薦められる本だ。


amazonに読書記掲載。
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読みやすい、意欲的な好著。古事記と日本書紀をテキストそのものとして読む試み。古事記と日本書紀は同一起源の「日本神話」を描くものとされてきた。時代によってどちらを優先するか、という問題はあった。だが、記紀を一つの「日本神話」を描くものとして読むことは、時代を通じて行われてきた。それは、日本人の由来が何なのか、天皇制の根拠は何かといった、日本(国家)のアイデンティティーを構成する問題だったのだ。

著者は、この一つの「日本神話」としての読解から記紀を解き放つ。そして、記紀そのものを読もうとする。すると見えてくるのは、古事記と日本書紀で神話的記述が大きく異なることである。その背後には、それぞれのまったく異なる「世界観」がある、と著者は読む。つまり、記紀は同じ一つの神話を異なって描いているのではない。それぞれ別個の神話、つまり「テキストにおいて成り立つ神話」(p.137)を描いているのである。

本書はまず、同一起源の神話という像を探っていく。最初に本居宣長が印象的に引き出される。彼は、日本書紀ではなく古事記に日本人の心を求めた。それも、古事記そのものではなく、古事記の起源となる日本神話である。こうして本居宣長は、日本神話を古事記に定位させる。ということは逆に、中世では日本書紀に日本神話が定位していたのだ。それはどのようにしてか、著者は描いていく。それは、日本・中国・インド、すなわち神道・儒教/道教・仏教を統一するという世界像の元にあったのだ。

これら記紀の歴史的読解に続いて、著者はいよいよ記紀そのものの読解に至る。ここは非常にスリリングで面白い。古事記ではイザナキ・イザナミの国土創造に、その上位の神ムスヒたちが関わる。ところが、日本書紀では国土創造はイザナキ・イザナミの自発的な共同作業となっているのだ。著者の記紀読解は非常にクリアであり、古事記と日本書紀の数々の相違について明らかにしてくれる。

記紀そのものの読解の後は、再び同一起源の「日本神話」について。この「日本神話」という考えがどう生まれてきたのか。著者はたとえば記紀から100年も経ていない『古語拾遺』を参照する。ここで早くも、古事記と日本書紀を同一の神話を描いたものとして「読み替える」作業が行われている。著者によれば、その後の記紀読解の歴史は、こうした時代時代での記紀の「読み替え」の歴史なのだ。それは、近現代でも変わらない。戦時期イデオロギーを支えた記紀読解。そしてイデオロギーから解放されたはずの現代の研究でも、一つの日本神話という考えが生きていることが確認される。

さて、確かに著者の意欲は素晴らしい。同一の起源を求める動機から記紀を解放し、それぞれ独自のテキストとして読むこと。もともと一つの神話があったのだとして求めたとしても、それは「研究が作り出した新しい神話」(p.205)なのだと著者は批判する。だが、記紀を別々に読解することにはやはり疑念が浮かんでしまう。この二つが描く神話は、もちろん大きな違いがあるとはいえ、あまりに似すぎているのだ。大筋のストーリも同じ。なにより、登場する神々の名前すら同じである。起源を推定するほうが素直な読みとも言える。このような著者の読解に向けられるべき問いは、記紀の起源に関するものだ。古事記や日本書紀がどのような意図の下、どのような状況の下、成立したのか。本書には、記紀そのものの起源に関する話は欠如している。旧来の記紀読解への批判のあまり、やや行き過ぎている感を覚える。

本書の叙述はきわめて平易。古文を扱う本としてはかなり読みやすい。叙述において時代が前後するが、最後に明快にまとめられているので問題はない。著者の問題意識や意気込みが強く伝わってくる本である。多くの人に勧められる。
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