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井上達夫『法という企て』

法という企て法という企て
(2003/09)
井上 達夫

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法哲学についての専門的な論文集。個々の法哲学者の見解に対する細かい議論も多く、概要でも理解するのはなかなか難しい。本書はだいたい三部に分かれ、最初に著者の見解に基づく法哲学が展開される。次いで、ケルゼンとドゥオーキンを取り上げて、その論争的な部分を読解。最後に、様々な法的トピック(加害者と被害者の和解、パターナリズム、公正競争、幸福など)について、著者の法哲学上の立場から論じる。最後の部分はやや柔らかい話題も多く、まだ読みやすい。

ケルゼンとドゥオーキンの読解は、その成否は分からないとしてもかなり意欲的な読解で面白い。どちらも、一見そうと読めるような解釈を退けて、時には原著者が表立って主張していない主張を取り出してくる。法実証主義を巡って、ケルゼンは裁判所が従わなければならない法的標準と、裁判所の裁量に委ねられる非法的標準を区別する事実的テストが存在する、という解釈を主張している。ところが著者はケルゼンの議論はこれとは違うもっとラディカルな解釈、すなわち裁判所自身が法を創造するのであり、法的標準と非法的標準の区別は裁判所が採択したかどうかの区別でしかないという解釈を、少なくとも防げていないと読解する(p.78f)。一方、ドゥオーキンは法実証主義を、法とはその内容でなく出自・系譜、すなわち採択・創造される仕方に係るテストによって網羅的に識別・同定されうる特別のルールの集合であるというテーゼにより特徴付け、批判した。それは、裁判の判決の法的妥当性について異論なく合意されることのなく、論争の的になるようなハード・ケースにおいて、裁判所は法的標準とは異なる、原理(principles)と呼ばれる道徳的・政治的標準に基づいて判断を行うのであり、この原理を法実証主義は正当化できない、というものだった。これは、単に法実証主義をいくばくか修正して原理をも正当化できるように変えれば済む問題ではない。ドゥオーキンは、ルールであれ原理であれ、法がそもそも他から区別された一定数の特別の諸標準の集合、「現存法(the existing law)」であることをそもそも批判している(p.122f)。これは「法実証主義(さらに、「現存法」の観念を共有するすべての法理論)の法概念論的主張に対する根本的挑戦を含んでいる」(p.125)。法と法でないものを区別するのは、特別な標準の集合ではなく、人々の間に存立する特殊な、「法的」と呼ばれる権利義務関係である。これは、こうした権利的素材を可能な限り政治道徳的にすぐれたものとして意味づける包括的な政治道徳理論にその正当化の根拠を持っている(p.137f)。

さて、本書の提示する問いは、法とは何かである。特に、その強制力はいかにして正当化されるのか。強盗が銃を突き付けてある行為(金を出せなど)を命じることと、法律が強制力をもってある行為を命じることの違いは何か。立法府が法律として制定したものがすべて法だが、法とはそれに尽きるのか。つまり、我々はある法について、その法が不正かどうかを論じることができる。そうでなければ違憲立法審査権は意味がないし、憲法を改正するということの意味もない。これは法について特有の事態だ。強盗の命じる行為について、それが不正かどうかという論点は成立しない(その命令は何にしろ不正・不法なのである)。

著者の回答は、法は正義に基づくというものだ。法は規範であり、これと命令を区別するものは、命令が単なる指図(prescription)であるのに対し、規範は指図に還元されず、むしろ、指図される行為が一定の「理由(reason)」により正当化可能であるというクレイムを内在させている点にある(p.7)。つまり法は、その指図する行為が正当であることのクレイム、「正義への企て」を含んでいる。正義への企てはあくまで企てにすぎない。この正義要求は法が正義に適っていることを意味していない。法は正義に適っていない、つまり自身の正義要求を実現できていないことがありうる。しかしそれゆえに、正義要求はいまだ達成していない正義の実現に向けて絶えず自己改革を行うよう法をコミットさせる。法によって何が正しいか、何が正義であるかが確定するのではない。それは、正義に適っているかの批判的再吟味に開かれている(p.10)。

と読むと、自分には真っ先にデリダの法/権利論が浮かんだわけだが、果たして著者もわずかにそれに言及している(p.66)。しかしデリダの議論は法の脱構築の先に正義があるというのみで、正義は真っ向からでなく斜めからしか語られないとして、正義についての実質的議論を避けている。これは何が正義であるかについては、各時代・各社会において様々であるし、一つの見解を正義と定めてしまうことはその覇権を強要することになり、結局正義に反するからだ。だが、著者によればこれは正義概念(the concept of justice)と正義構想(conceptions of justice)の混同である。正義概念は正義という理念の意味そのものだ。正義構想は正義の理念の様々な場面における適用基準を明示・特定し、その正当化を試みるものである。したがって正義構想はそれぞれ対立しあうが、それはそもそも正義という理念、正義概念を巡る対立なのである。そうでないとしたら、まったくカテゴリーの違うものを比較・対立させていることになる(p.13f)。

とはいえ、具体的に法を立法したり、裁判で法を解釈・適用する際には正義概念だけではなく、特定の正義構想に依拠せざるをえないだろう。著者はドゥオーキンの「純一性としての法(law as integrity)」の議論を取り込もうとしている。社会がその歴史との適合性を失わない限りで道徳的受容性がもっとも高い理論が、その社会がコミットしている正義構想とされる。法はその正義構想の具現、発展として理解される限りで正当化されるのだ(p.165-168)。
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