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森茂暁『南朝全史』

南朝全史-大覚寺統から後南朝まで (講談社選書メチエ(334))南朝全史-大覚寺統から後南朝まで (講談社選書メチエ(334))
(2005/06/11)
森 茂暁

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南朝の研究書を多く記している著者が南朝史を俯瞰できるように通史を書いたもの。よくまとまっている。扱っている年代はサブタイトルにあるように、朝廷が大覚寺統と持明院統に分裂するきっかけとなる、後嵯峨天皇が薨去した1272年から、後南朝の後胤についての最後の言及がいまのところ確認できる1479年までの約200年間となる。この年代を描きながら著者が目指しているのは、南朝が祭祀・統治機構の側面からして真っ当な政治機構と呼べることを示すこと。したがって南朝はそれ自体独立した権威として十分成り立っており、この時代は同等の権利を持って朝廷が北朝と南朝に分かれた「南北朝時代」と呼べること。また、足利政権は南朝を滅ぼそうとすれば滅ぼすことができたチャンスはいくらでもあったのに、なぜ南朝を存続させておき、最終的に北朝に吸収するという形での解決を望んだのかを示すことだ。

第一章に挙げられている、後嵯峨天皇と両統迭立への流れはよく書けている。承久の乱以降、四条天皇の急死にともない鎌倉幕府は朝廷の再反乱を警戒して践祚に介入し、後嵯峨天皇を立てる。天皇退位後治天の君として院政を行った後嵯峨院は、鎌倉幕府への配慮からか後継者を定めずに薨去。ここから後深草天皇の系統と亀山天皇の系統がそれぞれが曖昧な後嵯峨天皇の遺志をかかげて正統性を主張することになる。いったんは治天の君として亀山院が隆盛を誇る。鎌倉幕府は当初、朝廷の践祚問題には不介入のつもりだったが北条時宗は皇位問題に介入し、後宇多天皇の皇太子として後深草院の皇子熙仁を立てる。片方の系統に不満が蓄積し、朝廷が不安定となることを恐れたのだろうか。しかしこうした優柔不断が結局は大混乱を呼ぶことはよくあることだ。

また、亀山院の晩年になって生まれた寵愛の恒明親王から始まる大覚寺統の内部分裂が印象的に書かれている。恒明親王を何とか皇子に立坊しようとする朝廷内の勢力と、大覚寺統を受け継いだ後宇多・後二条の勢力に大覚寺統そのものが分裂する。そしてここに後醍醐天皇が登場することにより、大覚寺統は三つの筋に分裂してしまう。この中で「一代の主」として即位した後醍醐天皇が権勢をふるい、これに対向する形で持明院統は鎌倉幕府と軌を一にすることになる(p.71f)。

第三章・第四章では南朝の歴史とその機構をたどっている。中心としているのはその都度の天皇が出した綸旨である。綸旨が誰により、誰に対してどんな内容で出されているかを元にして、著者は天皇の影響力の範囲を探っている。また、基本的に史料が不足している南朝の研究を補うために、著者は『新葉和歌集』を持ちだしている。こうした和歌集の和歌には、その前段として和歌が詠まれた状況を説明する詞書が付されている。ここに大きな資料価値がある。これは特に後村上天皇の治世下の状況を探るのに役だっている。和歌集の編纂のような文化事業が行われたこと、また政治・訴訟機構を備えていること、真言宗の僧を中心とした宗教行事も行われていたことから、著者は南朝を独立した一つの朝廷とみることができると主張している(p.189f)。第五章は小倉宮を始めとする後亀山天皇の皇胤たち、つまり後南朝の活動と、足利義教の後南朝断絶宣言を巡っている。ここはこの主題を扱った別書があることからやや軽い扱いとなっている。

さて南朝がかくも長期に渡って存続した理由がこの本の一つの主題である。それは九州や陸奥を始めとする地方勢力を取り込むという南朝の戦略がある程度成功したこと、悪党・山賊など当時の政治体制外の勢力の組織化に成功したこと、また何よりも足利政権自体が観応の擾乱で内部分裂を起こしたことがあろう。しかし南朝は足利政権への抵抗勢力の旗印として担がれるものだったから、足利政権としては早く片付けて置きたいものだったろう。にもかかわらず南朝が潰されなかった「決定的な理由は、やはり、その裏返しとしての、武家政権=幕府に継承された、南朝に対する基本的な考え方であったと思われる」(p.215f)。まず、鎌倉幕府が皇統に介入することにより、両統迭立の伝統が暗黙のうちに生まれた。とはいえ両統から均等に皇位を割り振るのはなかなか難しく、両統迭立の原則は両統不可断絶の方針に取って代わられる。足利義満が主導した明徳の和議でさえ、結局は果たされたなかったが、このなかに両統迭立の事項が入っている。そうした理由を著者はこう書く。
公武統一政権の樹立を企図した室町幕府三代将軍足利義満が、南朝を実力で潰すことを避け、あくまで平和裡での合体を望んだのはなぜであろうか。おそらく、南朝を武力で潰し皇統を断絶させても根絶はむずかしく、いずれ分散・沈潜したその皇胤を擁立して抵抗勢力が決起する。そういう抵抗のための大義名分が成立する余地を残さないために、合体の儀式を行うことによって、神器を正式に接収することが不可欠であったのではないだろうか。その意味では、合体に応じたことは南朝にとって完全な敗北であったといえる。[...]ようするに、武家政権が伝統的に保持したきたこのような微温的な「両統不可断絶」の原則が、結果的に南朝を潰させることなく、合体まで延命させたと考えられるのである。(p.217f)

とはいえこうした平和のうちに収めたつもりでも結局は収まっておらず、足利義教の南朝断絶宣言に至ることになる。それまでの前例を重んじて何とか体面を保とうとしたがうまく行かず、強力なリーダーシップで一刀両断したということだろうか。だとすると、同じようにリーダーシップを発揮できる状況にあった足利義満が両統不可断絶にこだわった理由がよく分からない。これは総合的に広い見地からの検討を必要とする事柄だが、とりあえずは幕府に対して権威付けを与える朝廷に分裂という瑕疵があってはならないという考えが書かれている(p.135f)。この辺りがもっと掘り下げられるべきところということになろう。
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