Entries

鈴木生郎・秋葉剛史・谷川卓・倉田剛『ワードマップ 現代形而上学』

ワードマップ現代形而上学: 分析哲学が問う、人・因果・存在の謎ワードマップ現代形而上学: 分析哲学が問う、人・因果・存在の謎
(2014/02/21)
秋葉 剛史、倉田 剛 他

商品詳細を見る

分析的形而上学の入門書。この分野は最近盛り上がってきたが、日本の著者による入門書レベルのものは無かったのでとても喜ばしい。本のサイズや紙質もかなりよくて、持っているだけで気持ちが良い。内容は分析的形而上学のトピックに分かれて、それぞれの問題の概要や論争の状況を紹介していくもの。著者自身の見解の提示は抑えられていて、問題の解説に徹している。

トピックは人の同一性、自由と決定論、様相、因果性、普遍、個物、存在依存、人工物となっている。特色としては存在依存や人工物が扱われ、しかもトロープを大きく取り上げながらフッサールからの伝統について指摘しているところだろう。この辺りのオーストリア哲学の影響は日本ではあまり知られていないところでもあり、理解が広まる一助となろう。

分析的形而上学はかなりマイナーな話題のような扱いを受けることもあるが、そのトピックは至って伝統的。しかも分析哲学の各分野が、個別の科学の内容に深く関わっていってしまっている中、分析的形而上学は実に分析哲学らしいところを残している。論争の論理構造を明らかにし、前提や認めるテーゼによって立場を分け、実際の事例や思考実験でそれらの立場の有効性を論じるというスタイルだ。この論でもそうした具合はよく見られる。他の分析哲学は例えば数学の哲学なら数学の知識が必要、言語哲学でも最近は言語学の哲学と化しているなか、分析的形而上学は議論の入り口自体の敷居は低く、哲学的議論の練習にもなるだろう。

後は少し細かく気になった論点を書いておく。科学は現実に世界がどうあるかのみ問題にしていて、必然性や偶然性といった様相について語らないという文言(p.18f)があるが、いまひとつ真意を図りかねる。少なくとも導入部のここで出てくるのは不用意ではないか。例えば、素粒子物理の理論を用いて、対称性の破れがもし起きなかったとしたら世界はこうなっている、といった文言を導き出したとき、これは何を言っているのか。対称性が破れたにせよ破れなかったにせよ、云々の事態が成り立っていたはずという言明は様相について語っていないのか。おそらくここで言いたいことは、法則的必然性、形而上学的必然性、論理的必然性の三つの区別の導入(p.82-84)の後で語られるべきで、おそらく自然法則には形而上学的必然性は無くて(ただしこれは自然科学physicsは形而上学meta-physicsではないと言っているのと何が違うのか)、どういった自然法則が成り立つかに対して形而上学的偶然性を確保したい(p.133n.4)ということなのだろうか。

その様相の話については第3章が扱っているが、この書き方は一般的に納得できるのだろうか。この章の記述は可能世界の存在論的性質を巡って可能主義と現実主義を説いている(p.91-98)。いきなり可能世界という道具立てを持ちだしても、なぜこのようなものが問題になるのかピンと来ないのではないか。本当は可能世界意味論というモデル論の存在論的含意の話になるが、せいぜいフィクションの世界や量子力学の多世界解釈あたりの話でモチベートしないと分からなそうだ。可能世界という道具立てはそんなにすぐ受け入れられるものなのだろうか。直截的に言えば、様相論理の解釈で可能世界にまつわる存在論的問題に巻き込まれたくなければ、別のモデルを使えばいいのではないのか。つまり可能世界にまつわる議論は(1)我々の様相言明、(2)様相言明を様相論理として定式化すること、(3)様相論理に対してクリプキ意味論で意味論を与えること、(4)クリプキ意味論に登場するオブジェクトを集合論で解釈すること、(5)集合論に対して素朴集合論的な集合観を取ること、の5ステップを経てたどり着くもので、(1)と(5)を短絡させて論じられても少なくとも自分にはついていけない。

シングルトン集合がその要素をメンバーとしてもつことはシングルトン集合の本質に属するが、そのシングルトン集合に属することはその要素の本質に属しないという見解が紹介されている(p.216)が、これは容易に看過できない話だろう。シングルトン集合のメンバーにならないもの(ならなくてもよいもの)とは一体何か。ファジーな対象か?シングルトン集合のメンバーになるかどうかは、何かが個物であるとか存在者であるかとかに深く関わっているのではないか。つまりふつう考えられている集合観には存在論(後述するアリストテレス=ハイデガー的な)が備わっている。カントールを敷衍すれば、この存在論は「存在するとは数えられること(自然数との一対一対応が存在すること)」である。ちなみにこのくだり(p.213-217)で推論の関連性について話があって、注にでも関連性論理relevant logicへの言及がないのは少し不満。

記述の揺れのようなものを二つ。◯◯は存在するか、という問いがいくつも並んでいる中で、反物質だけ「実在するのだろうか」という記述なのは何か含意があるのか(p.140)。存在依存の定式化の中で、αβγのギリシャ文字の違いはその付値の対象の違いを含意していない(α=βの場合を許容しているp.208)ので、直接的な存在依存の定式化(DD)はγがαともβとも違うという条件を入れないと、思うところは表現されていないだろう(p.205)。

根本的な問題として、「存在論の第一の課題は「何が存在するのか」という問いに答えること」であり、存在物をカテゴリー分けすることだ、したがって「存在論とは「カテゴリー論」である」(p.224)というのはコンセンサスなのだろうか。アリストテレス=ハイデガー的な「そもそも存在するとは何か」という問いは無いのだろうか。様々な存在物がカテゴリー分けされたとしても、それらあまりにも異なるように見えるものたちが総じて「存在する」と言われる。存在物という括りはカテゴリー分けに入ってこないから、存在は超越概念(transcendence)である。で、これは何かと。メタ形而上学は形而上学の方法論についての考察(p.258f)だから、これはメタ形而上学の課題ではない。クワインの"On what there is"はアリストテレス=ハイデガー的な存在論の数少ない試みのように思えるが、それを継ぐものはいないのだろうか。
スポンサーサイト
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://exphenomenologist.blog100.fc2.com/tb.php/623-8a0a63b1

トラックバック

コメント

[C22]

補足ありがとうございます。

『アリストテレス的現代形而上学』に関連する議論があるのですね。機を見て読んでみます。
  • 2015-07-29 10:53
  • ex-phenomenologist
  • URL
  • 編集

[C21]

お返事ありがとうございます。以下は補足のみです。

> 本質
ファインの本質論に対する疑問はもっともだと思います。
ちなみに少し前に訳がでた『アリストテレス的現代形而上学』でもこの辺の話題はいくつかの論文で扱われております。
http://www.amazon.co.jp/dp/4393323491


> 素朴集合論
必ずしも集合を「ものの集まり」のように解釈しなくてもよいのではないかということですね。こちらはよくわかりました。

[C20]

とても有益なコメント、ありがとうございます。

本質と必然的性質を分けるKit Fineの議論に依拠しているのですね、なるほど。
だとしても私にはシングルトン集合のメンバーになりうることは、個物individualであることそのものであって、集合論の要請によってもたらされる外的な事柄ではないとどうにも思われます。
お書きのようにある程度、直観に訴えられると何も言うことができないですが。
「ソクラテスをソクラテスたらしめているもの」が集合論の言語で記述された時に、それは集合論の理論的要請だとされるのは私にはよく分かりません(それを言うなら他の本質は日常言語の体系による要請かもしれない)。


>(5)集合論に対して素朴集合論的な集合観を取ること
一階述語論理上のZF集合論は、何もメタレベルで素朴集合論(で違和感があるならブーロスのiterative conception of setでも)で解釈しなくともよいのではないか。例えばトポス理論でもできる。ZF集合論をトポス理論で解釈した時に、存在論はどう変わるのか。「∃x(x∈A)」という文に対して、Aに含まれるxという存在物の存在を要請しないやり方もあるのではないか。
分析的形而上学は集合論が持つ存在観(または、いくらか形式化してみると集合論で表されるような存在観)に無頓着に見えるーートポス理論や、(どこまで何ができるか何も知りませんが)Homotopy Type Theoryだったら、存在すると言えるのものについて何がどう変わるのか?少なくとも、数学言語の存在言明について与えられる存在論は集合論によるものに限られないのは確かであって、日常言語でどこまでパラレルに考えられるのか。etc
・・・といった話です。
  • 2015-07-26 12:27
  • ex-phenomenologist
  • URL
  • 編集

[C19]

たのしく読ませていただきました。
私は著者ではないんですが、以下は誤解のように思われたので少し補足をします。

> シングルトン集合がその要素をメンバーとしてもつことはシングルトン集合の本質に属するが、そのシングルトン集合に属することはその要素の本質に属しないという見解が紹介されている(p.216)が、これは容易に看過できない話だろう。シングルトン集合のメンバーにならないもの(ならなくてもよいもの)とは一体何か。


これはもともとはキット・ファインが使用した例で、ファインの見解ですね。
http://philpapers.org/rec/FINEAM-2


そしてファインもワードマップの著者も、本質と必然的性質をわけているので、必然的に、ソクラテスが{ソクラテス}シングルトン集合に含まれることは認めているでしょう。この意味で、ソクラテスが{ソクラテス}シングルトン集合のメンバーに*ならなければならない*ことは、特にこの見解に反するものではないはずです。

じゃあ本質って何だよという話ですが、ファインはかなりbruteな直観に訴えていて(少なくとも私にはそう見える)、「ソクラテスをソクラテスたらしめているもの」だと。そして{ソクラテス}シングルトン集合のメンバーであることはこの意味での本質と関係ないだろうというわけです。少し言葉を足すと、{ソクラテス}シングルトンのメンバーであることは集合論の体系から要請されてくる事柄であって、ソクラテスというものの本質とは関係ないだろうというわけです。

もちろんこの説明を聞いても、この見解が意味をなすかどうかは微妙なところでしょうが(私も疑問はありますが)、ひとまず前後関係はそんなところです。



もう一点。以下が何を意味しているかわかりにくかったのですが、どういうことでしょう?
(5)集合論に対して素朴集合論的な集合観を取ること

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する