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筒井泉『量子力学の反常識と素粒子の自由意志』

量子力学の反常識と素粒子の自由意志 (岩波科学ライブラリー)量子力学の反常識と素粒子の自由意志 (岩波科学ライブラリー)
(2011/04/28)
筒井 泉

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量子力学における実在性の概念を巡って、平易に書かれた一冊。タイトルに「素粒子の自由意志」という怪しい文言が入っているが、まともな本だ。後述するがこの自由意志とは、決定論的でないということに過ぎない。本書はアインシュタインらの有名なEPR論文を中心として、量子力学における実在性の問題を扱う。EPR論文のポイントを紹介するところから始まり、ベルの不等式による再評価、その後の展開としてのコッヘン=スペッカーの定理における実在の状況依存性の概念を扱う。最後に、近年の野心的な解釈として、コンウェイ=コッヘンの自由意志定理を扱っている。後半の二つは類書にあまり見られないユニークな解説だろう。

記述としては、最初のほうにいきなり電子のスピン方向を記述するケット記法が出てくるが、それ以外には量子力学の記法は出てこない。ケット記法についても内容を理解しないと進めないようなものではないので無害。EPR論文を解説するには電子のスピン状態のもつれ(entanglement; 物理系の全体の状態は確定しているが、その部分系は確定していない状態)を解説することになるが、これはマーミンの説明をほぼなぞっている。ただ、マーミンよりもうまく書けていると感じた。マーミンの解説は魔法陣などを用いたパズルに話を完全に置き換えてしまうので、電子のスピン状態のもつれというよく分からないものをよく分からないパズルにしてもよく分からない。著者の解説はきちんと量子の話に戻ってくるので、何の話をしているのか理解しやすくなる。

さて解説自体はとても明快。いくつかのテーゼを立てて、EPR論文やベルの不等式に基づく実験はそれらが整合的でないことを意味していると見る。後は、それらの不整合なテーゼのどれをどう修正するかによって立場が分かれる、ということになる。これは自分にはちょうど、心の哲学や知識論での立場の分類のように読めた。テーゼA、B、Cが整合的でないので、テーゼAを捨てるのが○○説、テーゼBを捨てるのが××説、といった具合の整理の仕方だ。

著者の見るところ、EPR論文が整合的でないとするのは、量子力学の完全性と、実在性の基準という二つのテーゼである。
物理理論の完全性 すべての物理的実在の要素に対応するものが、物理理論の中にあること。

物理的実在 もし対象の状態をまったく乱さずに、ある物理量の値を確実に(100%の確率で)予言できるとき、その物理量に対応する物理的実在の要素がある。(p.30)

ERP論文の設定のように、もつれあった二つの量子を離して、片方を観察すれば、もう片方は何もしていないのにスピン方向が確定する。したがってもう片方の量子はその状態をまったく乱さずにスピンの値を予言できる。したがってもう片方の量子のスピン状態に対応する物理的実在の要素がある。ところが、量子力学の不確定性原理によりそんな要素は量子力学のなかにはない。したがって完全性の基準より量子力学は完全ではない、となる。ところでここにはもう一つのテーゼがある。それは片方の量子が測定された瞬間に、もう片方の量子にスピン方向を伝達するような作用が存在しないという局在性のテーゼである。つまり、「物理的な相互作用は遠隔作用ではなく近接的なものである」(p.39)という物理学の基本的概念である。

結局は、EPR論文は実在性を保持したまま、完全性と局在性が整合しないことを示し、量子力学の完全性を捨てた。EPR論文ははじめはあくまで理論的問題だった。ベルの論文の功績は、それが実験によって決定可能だとしたことだという(p.41)。著者によればベルの定理が示すことは、「局在性と実在性を用いた説明が量子力学の予言を再現できないということ、つまり局在性を実在性に基づく自然観と、量子力学の(完全性ではなく)物理的な予言そのものが矛盾する」(p.57)ということである。つまり量子もつれにまつわる事象の中に、局在性と実在性を仮定したままではどうにも説明不可能な事象があって、一方で量子力学はその事象を正しく予言できるということだ。したがって、修正されるべきテーゼは完全性ではなく、実在性か局在性の方である。ここで実在性を修正するとはすなわち、測定前に電子のスピンが存在したという根拠は何もない、ということになる(p.61-64)。観測される前にも物理的に実在していたとは言えない、という実にバークリー的状況となる。

とすると実在性の基準というテーゼはどう修正されるべきなのか。ここにコッヘン=スペッカーの定理が位置づけられる。この修正された基準は、実在の状況依存性として説明される。二つの電子のスピンにおいては、例えばZ軸方向のスピン状態で|+z>と|-z>が不確定なだけではなく、Z軸方向のスピン状態とX軸方向のスピン状態が不確定である(同じ方向か互いに逆向きでない限り)。X軸方向のスピンを観測すればX軸方向のスピンが確定し、このときZ軸方向のスピンは不確定である。つまり物理量の実在は同時に確定する共存的な他の物理量の選択に依存するのであり、これが実在の状況依存性と呼ばれている(p.71)。コッヘン=スペッカーの定理が示しているのは、実在の真の姿は状況依存的だということだ(p.76)。ただし、どのような仕組みで状況依存性が導かれるのかはまだ分かっていないし、また観測を多数回行って平均するとこの依存性が消失してしまう理由も謎のようだ(p.79)。

この先が自由意志の話となるが、ここはやや思弁的に思考を広げることになる。EPR論文で取り出されたテーゼは完全性、実在性、局在性の三つだったが、このもつれ合った電子スピン状態の観測という物理系にはさらなる前提が含まれている。それは、ある粒子の状態はそれ以前の状態によって決定されるという決定性のテーゼと、観測者はどの方向のスピンを観測するか自由に決めることができるという自由意志のテーゼだ。この二つは、物理学さらには自然科学全体にとってあまりに基本的なテーゼのため、すぐには理解しがたい。決定性は因果律の一種として、科学の基本的事項である。また自由意志は、それなくしては実験ということが意味をなさない(p.82)。自然科学の方法論は、観測者が自由意志を用いて実験のパラメータを様々に変更して試行し、一般法則を導くものだ。自由意志により任意の事例を選ぶことができるからこそ、「すべての~について」という全称量化文を導くことができる。すなわち自然科学の方法論は、理論の内部は決定論的で、それを導く外的な手続きは非決定論的であることを要請している。

というわけで、完全性、実在性、局在性、決定性、自由意志という5つのテーゼが並んだことになる。実在性の修正については前述。局在性の修正については、著者はなぜかこの局在の修正は光速を超えたテレパシーのようなものにはならないと述べているだけ(p.58f)で、こちらの方向はよく分からない。自由意志を修正することは難しい。それは、もつれ合った電子スピン状態の観測という物理系に観測者も含めた上で、観測者がどの方向のスピンを観測するかは物理系の初期条件から導けるということで、少なくとも理解しにくい(電子を発生させる装置が何らかの仕方で観測者の脳に作用して、観測するスピン方向を選ばせるのか)。残るのは決定性の修正である。こうして決定性を修正するのがコンウェイ=コッヘンの自由意志定理ということになるだろう(p.93f)。つまり、電子のスピン方向はそれ以前の状態からでは決まらず、それ自身によって非決定論的に決まる余地があるということだ。

以上、本書はとてもすっきりした論理構成で量子力学の実在性の問題を扱っている。もちろん細部に立ち入らずに、量子力学の表面上をなぞっているので、説明上どうしても崩したようなところも多くあるだろう。だがこの問題について最近の展開まで追える本はなかなか貴重だ。

最後に、「自由意志free will」という言葉の使い方について。これはコンウェイ=コッヘンの論文が自由意志定理となっているので著者の責任ではないが、このような問題に「自由意志」という概念を使うのは極めて抵抗を感じる。ここで言われている自由意志は結局、非決定性のことに他ならない(p.84)。しかもその非決定性も何でもありなのではなく、もつれの状態にある他の素粒子と相関しなければならないような、とても狭い範囲の非決定性である(p.94)。それに自由意志の名を冠するのはとてもナイーブではないか。自由意志の概念はすぐれて社会的なものであって、行為や責任の概念が緊密に連携している。それらを捨象してしまって自由意志の概念だけを遊離して用いるのは適切とは言えないのではないか。このような批判はすでに多く寄せられているようだ。かの『知の欺瞞』にまつわる言説では自然科学の概念について、他の概念との関連を理解せず捨象して社会科学で利用することへの罵言が語られたが、これはちょうどその逆の事例に当たるだろう。
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