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佐藤卓己『歴史学』

歴史学 (ヒューマニティーズ)歴史学 (ヒューマニティーズ)
(2009/05/26)
佐藤 卓己

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歴史学というタイトルだが、歴史学とは何かについて一般的に解説した本ではない。どちらかと言えば著者自身の研究歴だろうか。歴史研究を手がけてきた中で、どのような問題意識を持ち、何を読み、どう考えてきたかを語っている。著者も書くように、本書は主に大学で歴史を研究している、あるいは研究しようとしている学生に向けて書かれた本であり、「次の世代にバトンをタッチする」(p.ix)ものだ。

というわけで歴史研究を志していない読者からすると、著者の研究裏話のような話を読んだり、あるいは各著書のなかでは書ききれなかった、より視野の広い見解を読むことになる。特に著者はメディア学、メディア史を扱っていて、この分野は「新しい歴史学」(p.101)、「歴史学のフロンティア」(p.108)であるため、その問題意識や成立背景へのエクスキューズが聞かれる。端的には次のような記述がある。
[...]歴史学の社会的使命の一つは、事実関係の整合性を検証することで他者とのコミュニケーションが成立する環境をつくることである。こうした理性的な討議の空間を生み出す公共性の歴史学を、私はメディア史と呼ぶ。それは単に新聞、雑誌、放送などの歩みを記述する歴史学ではない。事実を論ずる枠組みの構築を目指すメタヒストリーである。(p.100)


メディア史の成立とマルクス主義唯物史観との関わり(p.103-108)がやや意外だった。メディアが書籍、雑誌、新聞、ラジオ、テレビ、インターネットと発展してきた経緯が、ちょうどマルクス主義の史的唯物論の発展形態と親和的なのだという。確かにヨーロッパのメディア論者たちはマルクス主義的背景を持つ人が多い気もする。「唯物史観からメディア論に乗り換えた研究者は少なくない」(p.103)そうだ。

現在のメディア概念は第一次世界大戦期のアメリカで成立した(p.113)が、このメディアというものが基本的に情報操作に関わっていることが指摘される。ちょうど、「情報information」という軍事用語が普及していったように。したがってメディアは宣伝、プロパガンダなのである。それはマス・コミュニケーションと言い換えられていても変わらない。だからマスコミがヤラセをやるのは、その本性からして当たり前である。
現在、私たちの多くが意図的に、あるいは無意識的にも忘却しているが、マス・コミュニケーションとは戦争プロパガンダをロンダリングしたものである。[...]たとえば、マスコミ批判でよく問題になる「ヤラセ」である。事実関係のシナリオを準備しておきながらそれを隠して、作為のない事実そのままであるかのうように見せる手法である。しかし、「マス・コミュニケーション」が「プロパガンダ」の言い換えだと考えれば、そもそもヤラセは例外的なものではなく、マス・コミュニケーションに本来つきものなのである。「マス・コミュニケーション=プロパガンダ」の概念史は、私たちを取り巻くメディア環境を批判的に分析する視座を提供してくれるだろう。(p.115f)


また、日本人が日本において日本語でドイツ史を研究することの意味がどこにあるのか、その社会的効用はなにかという問いについて、日本のネオナチ文化、ナチ表象を巡って書いてること(p.70-76)が納得できる。日本のナチ表象を収集して分かるのは、ヒトラーが比較を絶した絶対悪の象徴となっていることだ。そしてナチスが絶対的な悪の政治の基準として機能している。これは、神を絶対的な善として、それとの距離で人間を判断したものの裏返しだ。ニーチェは神の死で絶対的な善の基準としての神を否定したが、その後に来たものは絶対的な悪の基準としてのヒトラーである。しかしナチス的要素は特別なものでもないし、絶対的なものでもない。それを絶対的悪に位置づけることは、我々のなかにあるそうした要素について軽視してしまうことにつながる。ナチスは絶対的に否定される「べきものである」というこの「べき論」、規律=訓練(discipline)の語法こそそもそもナチス的語法であって、「ファシズムの話法でないファシズムの叙述が今こそ必要なのである。さらに言えば、自らがファシストになる可能性に目を閉ざさないファシズム研究の必要性である」(p.74)。これは日本の太平洋戦争を巡る言説にも言えることだろう。

ちなみに著者はその中学生時代、『史記』や『漢書』などを含む平凡社の『中国古典文学大系』全60巻に夢中になり、そればかり読んでいて学校の勉強などほとんど手につかなかったという(p.128)。こういう研究者になる人は昔からそうなのだな、という感銘を受ける。
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